世界から「特別扱い」される人が育つ仕組み スタンフォードでは、仕組みを作って合理的に褒める(後編)

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学者の「業績」ができるまで

まず、研究を論文にまとめるプロセスはこんな感じだ。

①出てきたアイデアをちゃんと数学の形式に則って定理として表現する
②証明を厳密に詰める(この段階で、よく考えてみたら間違っていた、ということもしばしばある)
③文章として読みやすいように、何度も何度も何度も改訂をする(僕は論文の改訂のたびに通し番号を付けてファイルを保存するのだけど、100近くなることも少なくない)

 

さらに、この論文を研究者としての「業績」にするためには、専門誌に載せなければいけない。

ここではレフェリー(査読者)がいろいろ注文をつけてくる。この部分はつまらないから削れとか、こういう面白い問題が議論されてないから考えろとか、とにかくいろいろと。

このやり取りを入れると、論文を専門誌に提出してから最終的な出版にこぎ着けるまでに、数年かかったりしてしまうのが普通だ(そしてレフェリーが気に入らなければ掲載を拒否されるので、最後まで気が抜けない)。

という次第だから、最初のアイデアがどんなに楽しいものでも、そのあとの部分は相当に苦しいし、ストレスがたまる。最後までやり遂げる気力を得るには、何らかの「アメ」や「ムチ」は必要だろう。

大学や学者の世界の、やや過剰とも思える賞の氾濫にはこういった背景もあるのではないだろうか。経験上、僕も褒められるとやっぱり嬉しいし、褒められるたびにやる気が出たような気がする。

ともかく、僕がスタンフォード、もしかするとアメリカの大学全般の良い点だと感じるのは、成果を出した人をちゃんと褒めることだ。

生まれ育った日本の文化のためか、それとも僕個人の性質なのかはわからないが、勉強ができたりだとか、仕事で成功したりだとかを、ことさらに喧伝し、ひけらかす習慣に、違和感を持たなかったと言えば嘘になる。

けれど、成果を上げることを本人が変に卑下してみたり、他者が評価せずにいるというのはやはり良くないとも思うのだ。

僕は昭和生まれの男なので「誰にも認められなくても、自分の道を信じて進みます」と言いたい気分にかられる(この「昭和の男」像って若い読者の方とも共有できるのだろうか?)のだけど、大抵の人は実際にはそんな鋼のような心を持っていないのではないか(少なくとも僕は持っていない)。

それに、褒められるかどうかを気にするというのは、自分がやっていることが独りよがりでなくて正しい方向に向かっているかどうかを、絶えず自問することにもつながる。

その点でも人からの評価を気にすることは、必ずしも悪いことではないだろう。アメリカの多くの大学はこのことを知っていて制度化しているのではないか?

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