この言葉の真実性を物語るエピソードに限りありませんが、私には忘れられない1つの記憶があります。
いわゆる中国残留孤児といわれる人たちが、頻繁に日本の血族を探しに来ておられた時期のことです。その中のお一人でしたが、中国側の養父母は、涙を飲んでその人を日本に送りました。下手をすれば、実父母に手渡すことになるかもしれないのに、養子のことを考えて決断したのです。
一方、実母は、関係機関やメディアの再三の働きかけにも、会うことを拒否しました。その“孤児”の方のテレビでの涙の呼びかけ、「お母さん、私はお母さんに何かをもらいに来たわけではありません。ただ自分のルーツが知りたく、ひと目お母さんに会いたくて来ました。どうか私と会ってください。私は中国で、養父母と幸せに暮らしています」が、忘れられません。
もちろん、ほとんどの日本側親族たちは、“子ども”たちを懸命に探し続けられたわけですから、これは特殊なケースです。実母側にも、「今の家族にも知られないよう面会できる」という働きかけにも応じられない事情があったかも知れません。
しかし育ててこそ育まれる、親子の愛情や絆について、考えさせられました。単に子どもを産んだからといって、親になるのではありません。育ててこそ、徐々に本当に親になっていくものなのです。
体が離れると、心も離れる
私の若い友人の明子さんは、いわゆる格式高い家の長男と、両家の親の強い反対を押し切って、結婚しました。すぐに女の子ができ、とても幸せな家庭を築いていました。
女の子はとても利発で、両親・両祖父母は目の中にいれても痛くないというかわいがりようでした。その子2歳の時、明子さんにある仕事話が舞い込みました。小さな貿易会社を起こした知人が、語学堪能で有能な明子さんに、重要な仕事を任せたいというのです。
関西に住む明子さんは身を切る思いでしばらくの間だけ、娘を九州に住む姑に預けて働きました。大学卒業後すぐに結婚した彼女は、仕事が面白くて仕方がありません。そのうち海外出張も多くなり、あれだけの反対を押し切って結婚した夫の存在も、煩わしくなってきました。あれだけつらい思いをして姑に預けた娘も、自分が育てるよりうまく育っていると感じたそうです。
それで娘も手放す条件で、離婚を申し出ました。ここからが九州の姑さんの出番なのですが、姑さんは長い手紙を何通も、明子さんに送りました。「あなたは今、精神的にも疲れているのだと思う。できれば仕事も休んで、ゆっくり休養してほしいが、ともかく娘のことは私に任せ、離婚はしばらく棚上げにして、仕事をしながらでもゆっくり考えなさい」。
そうして何通も時をかけて手紙を送ってきた後は(明子さんからの返事はいつも電話)、姑さんも離婚やむなしという結論に達しました。その時姑さんは、孫(明子さんの娘)の成人までは自分が育てる自信はあるし、そうしたいが、母娘は一緒に暮らすのが一番。あなたの条件が整えば、いつでも連れに来なさい」と言われたのです。
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