関ヶ原の戦いは「裏切り者を見抜く」教科書だ 「友人、部下、同僚」こんな人物は要注意!

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4.わが身の「生き残り」を最優先して(小川祐忠)

戦国時代によく見られる、典型的な「なりふり構わぬ」生き残り戦略。その代表例は、小川祐忠(おがわ すけただ、伊予今治〔愛媛県〕7万石)でしょう。

小川祐忠は、当初は六角家に仕えていましたが、織田・浅井連合軍により六角家が滅ぼされると、浅井家に仕えます。

やがてその浅井が織田に滅ぼされると今度は織田に、織田が明智光秀の手に倒れると明智に、明智がやられると柴田勝家に、柴田が滅ぶと豊臣秀吉にと、自らは「恥も外聞もなく」生き残る道を選びます。

彼にとってみれば、関ヶ原の戦いもそうした「生き残り戦略」の延長にすぎなかったのでしょう。

最も多かったのは「勝ち馬に乗る」ため?

5.最後に「勝ち馬」に乗ろうとして(赤座直保、朽木元綱)

どっちつかずの日和見でしたが、「東軍が勝つ!」と見るや、体よく勝ち馬に乗ろうとした者もいます。数からいえば、これがいちばん多かったでしょう。

赤座直保(あかざ なおやす、越前今庄〔福井県〕2万石)や朽木元綱(くつき もとつな、近江高島〔滋賀県〕9500石余)らは西軍に属し、関ヶ原の戦い当日を迎えます。このとき、東軍への寝返りを画策していましたが、その「事前通告」は家康にしておらず、最後まで態度は「流動的」でした。

戦いがはじまり、やがて「小早川秀秋の裏切り」を見るや、小早川軍の前面に布陣していた赤座や朽木は、小早川軍の先陣をつかさどる形で「勝ち馬」に乗ろうとして西軍を裏切ります。その結果、東軍を勝利に導きましたが、当然その「功績」はまったく家康には認められませんでした。

【番外編】「私は裏切っていません!」(島津義弘)

島津義弘(しまづ よしひろ、薩摩・大隅〔鹿児島県〕56万石)は裏切り者のひとりとして扱われることもありますが、終始戦闘には参加しておらず、これは「誤解」です。

西軍の事前の作戦会議で、当日の島津隊はもともと兵力も少なかったことから「二番備(にばんぞなえ)」、つまり敗北寸前の敵に「とどめの一撃」を加える役割を命じられていました。戦闘への不参加はこのための「兵力温存」であり、小早川秀秋、吉川広家らの動向とはまったく異なります。

ただし、「じつは石田三成の采配に不満をもち、兵を動かさなかった」とも言われます。

結局、島津隊の出る幕がないうちに西軍が崩壊したため、島津義弘は敵陣を「中央突破」し、家康本陣をかすめて戦線を離脱しました。

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