もし関岡が従来路線の維持を主張していたらガンダムは生まれなかった。では、なぜ、関岡は〝非常識〟な企画をあっさり認めたのか。
関岡は31年生まれ。歴史が好きで将来は学者になりたかった。大学院に進み明治政治史を研究した。その後、女子高の社会科教師として教鞭をとる傍ら、論文を書いていたが、名古屋テレビが開局に伴い社員を募集すると聞き応募したところ、応募者6000人の中から採用された。「僕が近代史を研究していたので、ドキュメンタリーでもつくらせようと思ったのかな」と関岡は述懐する。
制作部に配属されスポーツ中継、歌番組などあらゆるジャンルを担当した。印象に残っているのは力道山のプロレス。岐阜での試合を収録した録画中継を居酒屋で酒を飲みながら見ていたら、自分が切り替えたカメラアングルのタイミングで、その都度、店内が沸いた。視聴率60%。この瞬間、全国で6000万人が自分の撮った画を見て騒いでいるのかと思ったら、背筋が寒くなった。
ガンダムからフォークソングまで
歌番組も担当した。地方局には人気アイドル歌手を呼ぶほどの予算はない。そこで、若者の間で人気が出始めていたフォーク歌手に目をつけた。「チューリップやかぐや姫。みんな名古屋で歌った。ガロの『学生街の喫茶店』(72年)なんて、私が作った番組でヒットしたようなもんです」。フォーク人気は名古屋テレビから始まった。関岡はそう確信する。
その頃、設立から数年を経た日本サンライズは他社製アニメの下請けに甘んじていた。自ら企画したいと意気込むものの、東京や大阪の局には相手にされなかった。そんなときに名古屋テレビと出会い、ロボットアニメが2本制作された。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら