79年に放映開始した「ガンダム」は過去2作とはテイストがまったく違った。SF映画のような広がりを感じさせる第1話の冒頭に当時の視聴者はみな驚いたはずだ。だが、当の関岡は、「大人向けにすると意気込んでいたわりには、そこまでいっていない」と、手厳しかった。それでも、主人公がコクピットの中でモニターを見ながら操縦するという描写は「非常にいい」と感じた。
「シャア」の活躍は関岡の要望だった
関岡氏はストーリーに口出しすることはほとんどなかった。ただ、敵役「シャア」の扱いは気になった。視聴者から局に投書が殺到し、人気ぶりに驚いた。スタッフに聞くと、今後シャアは死んでしまうという。「殺さずに再登場させてほしい」。これが関岡氏の数少ない要望だった。
「関岡はなぜガンダムの企画を了承したのか」という本題に戻ろう。関岡は東京へ向かう道中、「幼稚園児向けはつまらないなあ」と漠然と思っていた。それが企画書を見たら関岡の意を受けたような若者向けアニメ。関岡が「即座にOK」した背景にはこんな理由があった。
当時、「宇宙戦艦ヤマト」をはじめ若者の間でアニメブームが巻き起こり、ガンダムほどではないにせよ高い年齢層を意識したロボットアニメも存在していた。関岡は「はやっているものを追いかけても面白くない。頭一つ抜け出したものをつくりたい」という考えだ。なまじアニメに詳しくなく、流行を先取りしたいというテレビマンの本能があったからこそ、ガンダムの可能性に気がついたともいえるのだ。
「僕がいなくてもガンダムは生まれたよ」。関岡はこう言って笑うが、オープニングに掲載されるスタッフリストにはプロデューサーとして関岡の名前が燦然(さんぜん)と輝いている。
戦国時代から現代に至るまで、名古屋の〝非常識〟が幾度も歴史の流れを変えてきた。そう考えると、アニメの歴史を変えたのも、関岡の〝非常識〟な決断だったといえるだろう。
(撮影:和田 英士)
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