そもそも「暗記する」といった行為自体、一定の教養の普及や忍耐力の養成には役立つかもしれないが、インターネットの検索・PCやモバイルのデータ保存機能にかなうわけはないわけで、ギガ回線時代に、あの「ピー・ピロピロピロ」の電話回線で勝負しようとしているようなもの。子どもの思考力を排除するばかりか、国際競争力の強化には程遠い。
「正しい答え」を教えられ、それを暗記する教育が染みついている日本人は、「正しくない」答えを極端に恐れる。人前で発言して、間違っていたらどうしよう、バカにされないか、つねにそんな気持ちが先に立つ。コミュニケーションに「絶対正解」はないわけで、日本人の生真面目な「正解へのこだわり」が、パブリックスピーキングの最も大きな足かせとなってしまうのだ。
中国の大学はパブリックスピーキング教育を導入
一方で、コミュニケーションには確立されたルールや方程式がある。それを学ぶための「パブリックスピーキング」を学校教育に取り入れる動きは海外では非常に活発だ。
最近では、中国や韓国も非常に力を入れており、中国の大学では英語のパブリックスピーキング教育を次々と導入。2000年まで、たった2校しかなかったが、2011年には200校以上に上っている。現在はさらに増えているはずだ。そもそも、英語教育に並々ならぬ熱意をみせる韓国も同様で、大学の外国人の教員採用は2005年から2012年にかけて2131人から5964人へと約3倍に増え、最近は、韓国人であっても、英語を話す教員しか採用されないそうだ。
その中でも、英語でのディベート教育熱はとみに高まっており、大学のみならず、高校などにも急速に広がっている。海外留学から帰国した若者たちやアメリカなどの専門家たちが、本格的な英語ディベート指導にあたり、その重要性を説いて回り、機運を盛り上げているという背景もある。
かように、パブリックスピーキングに力を入れる隣国には、「話す力」=国力という理解があるのだろう。今、アジア、特に中国からすさまじい数の留学生がアメリカ中の大学に押し寄せ、ハーバード、イエール大学などの超名門校に入学しているが、これはすなわち、アメリカ流パブリックスピーキングで弁舌を鍛えた次世代エリートが大量に養成されているということだ。国連の場で、外交の場で、国際ビジネス交渉の場で、こうした英語ネイティブのスーパー雄弁家・詭弁家が跋扈(ばっこ)する時代がほどなくやってくる。
日本でも英語教育に力を入れようとの話は聞こえてくる。しかし、話す力のないまま英語を学ぶことは、砂漠に水を撒くようなものだ。知り合いのハーバード大学の教授は、外国からの留学生を受け入れるかどうかを判定する選考委員をしているが、「日本からの志願者は、英語の単語力、読解力などは非常に高いが、唯一『話す力』だけが著しく低く、結果、受け入れられないケースが多い」と話していた。
語彙力の問題でも読解力の問題でもなく、日本人の英語がなかなかうまくならないのは、そもそも話す力を養う教育が欠落しているからだ。話す力は、生まれつきのものでもないし、何もしなくても身に付くものでもない。英語云々の前に、まずは、日本語で、人前でしっかりと話すためのルールや基本形を学ぶ教育が必要ではないだろうか。
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