ゴジラが破壊した「蒲田」は昭和の楽園だった

黒澤商店がつくった自給自足の共同体

「矢口町」というのは、いまの蒲田周辺から西側のエリアで、私が生まれ育った東急池上線や当時の目蒲線沿線にあたるところです。その本のなかに、この時代の人口動態に触れた記事がありました。

我が郷土の人口は昭和六年末現在にて二萬二十を算し、之を大正十二年震災の年の四千百十六に比較するに、約一萬五千九百の増加である。このうち出生による増加ももちろんあるが、大部分は移住者による増加である。而してこの移住者の大部分は所謂勤人である関係上教育の程度は概して高いのである。然し従来の土着民は其の職業的関係よりして、前者に比し稍々劣り、尋常科或は高等科卒業程度の者が其の大部分を占めてゐる。(『矢口町誌』より)

驚くのは、大正12年から昭和6年までの8年間で、なんと地域人口が倍以上になっていることですね。そして、その理由として、出生増加ではなく、そのほとんどが移住者であると記されています。蒲田周辺のこの地区が、戦前昭和の時代に勤め人にとっての新天地であったことをうかがわせる記事になっています。

『矢口町誌』には蒲田区の人口動態のグラフが示されています。昭和元年に、3万2533人だった人口は、昭和7年には5万1307人に膨れ上がっています。

このうち、昭和6年の同町の自然増加数は792人であったのに対して、移入者数による増加は3928名と5倍になっています。この移入増加数はそれ以外の年においても、5倍から、10倍ぐらいまでの幅で自然増加数を上回っているのです。

戦前昭和という時代に、なぜこの地域に、都市生活者たちが大量に流入することになったのか。そこには、何があったのでしょうか。いったいなぜ、蒲田、矢口といった場所に人々は吸い寄せられたのでしょうか。

黒澤商店という「先進的」で「奇妙」な会社

おそらくそれは、蒲田に限らず、この頃より都市化現象が活発になり、情報が都市に集中し、農村地域からの出稼ぎ労働者や、商工業労働者が大量に中心部へと引き寄せられたという事情によるでしょう。しかし、その都市のひとつが、なぜ蒲田であったのかについては、よくわからないところがあります。その疑問を解く鍵のひとつが、この地にあった「吾等が村」という独特の企業コミュニティです。その中心にあった黒澤商店という会社について、見てみましょう。

黒澤商店は、今ではほとんど顧みられなくなった会社なのですが、当時は他に類例を見ないほど「先進的」な会社でした。別の言い方をするなら「奇妙」な会社です。

『矢口町誌』の中にも、黒澤の文字が出てくるところがあります。しかし、主たる工場として黒澤工場、大倉陶園、東京ラバー工業などが列挙されているだけで、なおかつ「本町においては工業について格別取り立てゝ述べることもない」などと解説されているのです。

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