ゴジラが破壊した「蒲田」は昭和の楽園だった 黒澤商店がつくった自給自足の共同体

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黒澤貞次郎の年譜を調べてみると、最後まで個人経営による家族主義にこだわり、利益の大半を納税しなければならなかったことがわかります。終戦後も、非戦災者税及び死後の相続税で、きわめて過酷なる支払いに苦しめられたようです。希代の経営者にして、社会改良家であった黒澤貞次郎は1953年、大田区調布嶺町1丁目94番地で逝去します。私が3歳のときですね。しかも今現在私が暮らしている大田区嶺町で没しているんです。因縁を感じないわけにはいきませんね。ほとんど、私の生活圏内で起きていたことなのです。

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黒澤貞次郎の履歴をもう少しくわしく追ってみましょう。

明治8年(1875年)貞次郎は、日本橋室町に生まれました。若き日より英語に興味を抱いていた貞次郎は、薬問屋の小僧奉公が終わるころ(明治23年)、一念発起してサンフランシスコ行の船に乗りこみます。しかし、アメリカ西海岸での生活は、来る日も来る日も、芋ほりや缶詰工場での労働といった単純な肉体労働の連続で、その対価はわずかなものでしかありませんでした。

明治30年、「東にはもっといい仕事がある」と聞いた貞次郎は、シアトルでの仕事に見切りをつけて、ニューヨーク市へ向かいます。そこで出会ったのが、エリオット・ハッチ・ブックタイプライター社の社長、エリオット・スミスでした。貞次郎は同社に就職し、その傍らカナ文字タイプライターの発明に着手しました。

明治34年、27歳の秋に帰国して、現在の銀座並木通りに20坪ほどの店舗を構えます。これが、日本最初のタイプライター販売とサービスの会社、黒澤商店の創立でした。

明治43年には銀座尾張町に線路の廃材を使った鉄骨の新ビルを建設して移転し、大正2年には蒲田の地に2万余坪にわたる土地を買収しました。この建設には、貞次郎自ら作業に参加しています。

その後、関東大震災で大きな被害を被ることになったのですが、不屈の努力で工場を修復し、事業も再び軌道に乗せていきます。その間、蒲田の工場を中心に、社宅、農園、遊園地、テニスコート、そして学校が建設され、日本に希有な「工場村」(吾等が村)が出来上がっていったのです。

平成8年発行の『大田区史』は、黒澤工場村(吾等が村)を次のように説明しています。

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