ゴジラが破壊した「蒲田」は昭和の楽園だった

黒澤商店がつくった自給自足の共同体

それに比して、農業に関しては多くのページが割かれており、「京浜工業地帯を隣に有する本町は不思議にもその餘波を受けない。もとより関東平野の土地に於ては農業がその主産業であろう」と記されています。そして、この地は水田には乏しいが、畑が多く、その理由は大都会の需要があったからだと結論づけています。

つまり、蒲田は、都市郊外の田園でした。田舎だったといってもいいかもしれません。しかし、ただの田園に、多くの人口が流入してくるということは考えにくいことです。蒲田は、上野と並んで、地方出身者が東京へ流入する、最初の玄関口だったのです。もっぱら、大都市東京への入り口として、蒲田周辺はいちはやく都市化し、都市への人口集中の先駆的なモデルのような場所になっていったように見えます。

都市化、近代化の萌芽が蒲田に始まっていました。そういった流れを牽引した人物として、人間が居住し、労働し、資源が循環する理想郷をつくろうとした一群の企業経営者がいました。その多くは、イギリスの社会改良主義の伝道者の影響を強く受けていました。エベネザー・ハワードの田園都市構想は、その最たるものでした。黒澤貞次郎は、幾人かの社会改良主義の影響下にあった経営者のうちのひとりだったのです。

『矢口町誌』のなかで、黒澤の名前が頻繁に出てくるのは、産業の項目ではなく、教育の項目のところです。黒澤幼稚園、私立黒澤尋常小学校という2つの教育機関が名を連ねています。黒澤尋常小学校の生徒は、男子52名、女子50名の合計102名。それに対して先生は5名でした(昭和7年9月1日現在)。

そもそも、戦前の財閥系の企業ではなく、巨大企業でもない黒澤商店なる企業が、田園風のこの矢口の地に学校まで作るというのは、いかなるモチベーションからだったのか。私は、映画『生れてはみたけれど』を分析しながらも、常にこの黒澤商店のこと、その社長である黒澤貞次郎という人物のこと、そして黒澤貞次郎がつくった「吾等が村」という自給自足型の共同体のことが気になって仕方ありませんでした。

いったいなぜ、このような共同体がこの地に出現したのか。そしてそれはなぜ、こつ然と姿を消してしまったのか。

私は、松竹が蒲田に撮影所をつくったことと、黒澤貞次郎が「吾等が村」を作ったことの間には、どこかで不思議な因縁があるように思うのです。

キネマの天地と労働者のユートピア

戦前昭和という時代、京浜東北線、東海道線を挟んで、東にキネマの天地、西に労働者のユートピアが同時に存在していたのが、蒲田という場所でした。

戦前昭和の蒲田は東京への玄関口であり、もともと田園地帯だったこともあって、有徳の士たちが、ここに田園都市を作り上げようと計画したのです。そして、蒲田田園都市が栄えた戦前昭和とは日本の歴史のなかでもまれな光彩を帯びた時代でした。

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