イランから亡命した女性が見た移民の「真実」 米国へ亡命して30年間で何が変わったのか
えび茶色のイランのパスポートが期限切れとなり、青い米国のパスポートが発行されるまでの間には、白い小冊子があった。それはパスポートではなく、渡航証明書だった。到着してから新たな身分を獲得するまでの状態を示す意味で、白は象徴的な色だった。
私は当時、「nowhereian(故郷のない人間)」と自己紹介した。過ぎ去った恐怖がまだ付きまとっていた頃のことだ。どのゲートにもいる制服の警備員を見るとビクビクした。
米国への帰属意識はときとともに少しずつ培われた。宣誓式で行う米国への忠誠の誓いは意義深いが、往々にして儀式ばったものに過ぎない。しかし、重大な転機となる出来事や危機は帰属への近道となる。
マンハッタンの煙が教えたこと
たとえば9.11だ。その日午前10時まで、テヘランへの切なる思いを次から次へと詩に綴っていた私の75歳の父は、クイーンズにあるマンションの4階のバルコニーの手すりに星条旗をぶら下げた。それは現在に至るまで、父がここで犯した唯一の不法行為になっている。マンションの自治会が屋外ディスプレーを認めていないことを、父は重々承知していたからだ。
父は、それまで難攻不落だと思っていた第二の祖国に対して次第に込み上げてきた悲しみに押され、そうせざるを得なかったのだ。私たちは、無言でマンハッタンのくすぶり続ける摩天楼見つめて、死者のために涙を流し、亡命の際には感じなかった愛情の高まりを覚えた。その不吉な煙のどちら側につくのかについて、私たちは明確な意識を持っていた。
その頃には先述の怒りは収まっていた。ときが全ての感情を鎮めただけでなく、かつて私を拒んだ喜びの経験が精神のバランスを変えたからだ。極めて重要な移行は、こうした喜びとともにやって来た。
この2回目の到着では、国にではなく洞察に行き着いた。人生の目標は、犠牲を通して自分自身をあきらめることではなく、精一杯、豊かに、好奇心に駆られて生きることなのだ、と私は悟った。
私がイランを離れた時、音楽は禁止され、頭と顔を覆うヒジャブの着用が義務付けられていた。数年後、私がついにビーチを裸足でジョギングしたとき、風に髪はなびき、音楽が聞こえた。素晴らしくて、それなしでは再び生きることはできなかった贈り物が、私に与えられたのだと分かった。