甲子園優勝校、地元の「祝勝セール」は厳禁? なぜ一商店の営業努力にまで口を出すのか

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東京での「害毒」論議はさておき、野球熱の高まりに販促や沿線開発をもくろむ新聞社や電鉄が乗っかろうという関西独特の割り切り方には脱帽するしかないが、それでも当時の中等学校野球大会を継続的に開催していくには、文化人から指摘された野球の「毒性」を中和する必要があることは確かだろう。

なぜなら、上記の引用を見れば明らかなとおり、その指摘の多くはまんざら嘘とも言い切れないからである。たしかに、野球は試合時間が長く、広大な場所をとり、カネがかかる。だとしたら、そうした批判を少しでもかわせるように工夫をしなければならない。

現在の高校野球の「進化」は、周囲からのさまざまな批判に対処してきた結果としてもたらされたと考えるのが妥当である。「野球害毒論」への反論しかり、桑田真澄氏が指摘する日本の野球界に残る独特の「精神性」は、戦時中に野球がアメリカ由来の「敵性スポーツ」と見なされたことへの対処法と考えられる。

センバツ大会が2001年より「21世紀枠」といった一見不透明とも言われる選抜制度を設けているのも、実は歴史的経緯がある。戦後、GHQによって高校野球の全国大会を年2回開くことの問題点を指摘されたことから、少しでも夏の選手権大会との差別化を図ろうと工夫してきた結果でもあるのだ。

このように考えれば、日本高野連の役割もおのずと明確になるだろう。それは、各所に目を配りつつ、甲子園大会が継続的に開催できるよう日本の高校野球を守ることである。なぜ守る必要があるかというと、高校野球が矛盾を抱える「ビジネスモデル」だからである。

たとえば、理念として「教育の一環」を謳い学校のリソースを借用しながら、不健康きわまりない8月の炎天下で試合をやらせている。不確実性の高い野球というスポーツに一発勝負のトーナメント制を採用しているにもかかわらず、勝負にこだわる敬遠四球やカット打法を好ましくないと批判する。そして、平日昼間に視聴率20%をたたき出すほどの優良コンテンツを提供しながら当事者には一切の商業性を持たせない。

高野連を批判するより選択肢を増やすべき

こうした矛盾が高校野球に対する批判を容易にしているのである。しかし、ここで私たちが気づくべきは、この矛盾こそが高校野球の「ウリ」であるという点である。このスタイルを変えてしまうと、国民的行事ともいうべき高校野球の価値の多くは失われる。

球児らの健康を考えて涼しい秋の開催にすれば、高校生たちの学業にも影響し、甲子園に応援に行く生徒や地元の人たちも大幅に減るため、甲子園の「熱気」は消え失せるだろう。また、市場経済の枠組みに載せようと高校野球の「商業化」を推し進めれば、カネ儲けが目当てのプロ野球との差別化は失われ、「高校生らしい」野球を期待するファンの足を遠のかせるだろう。

高校野球を存続させたいならば、矛盾した要素のバランスを巧みにとっていくしかないのである。さらにいうなら、本気で現在の高校野球を改革する覚悟があるならば、高野連のビジネスモデルに代わるもうひとつの高校野球を作るべきだろう。批判するだけではなく、高校生たちに別の選択肢を与えることが、健全化へ向けての王道と思えるのである。

中島 隆信 慶應義塾大学商学部教授

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なかじま たかのぶ

1960年生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。博士(商学)。専門は応用経済学。著書に、『新版 障害者の経済学』『高校野球の経済学』『お寺の経済学』『大相撲の経済学』(以上、東洋経済新報社)、『経済学ではこう考える』(慶應義塾大学出版会)など。

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