撃沈から72年「対馬丸の悲劇」を深く知るQ&A 「子どもら約1500人が死亡」史実に何を学ぶか
Q5. 対馬丸はどのように沈められたのですか?
8月20日夕刻、対馬丸ら3隻の船団は、学童および一般疎開者を乗せ、護衛艦2隻とともに那覇を出航します。
船団は目的地である長崎を目指していたところ、アメリカの潜水艦「ボーフィン号」(水上排水量1526トン、全長95メートル)に発見され、8月22日22時23分、対馬丸は魚雷による攻撃によって撃沈されました。
乗客の多くは「十分な避難経路の確保されていない船倉」にいたため、ほとんどが脱出に間に合いませんでした。
アメリカは「学童の乗船」を知っていたか
Q6. 救出作業は行われなかったのですか?
救出作業は行われたものの、救出作業が始まったのは翌23日からでした。当日は、深夜であったことや二次被害の危険性を考慮し、船団は「救出よりも退避行動を優先」させたのです。
軍と民間の漁船による捜索で、24日までに漂流者約250人が救助されるなどその後も捜索は続けられましたが、6日間も漂流したあげく150キロも離れた奄美大島に流れ着いた子どももいたようです。
「学童の生存者は全体の1割にも満たない60人程度」という悲しい結果になりました。
Q7. なぜ「非戦闘員」を乗せた対馬丸が攻撃されたのですか?
アメリカは、太平洋戦争開戦当初から、「軍民を問わず敵国に関係すると思われる艦艇・船舶すべてに対し、潜水艦が無警告で攻撃する」という「無制限潜水艦作戦」を実施していました。
このため、対馬丸のような民間船も攻撃対象とされたのです。
Q8. それは戦時国際法違反ではないのですか?
違反です。しかし、当時「新兵器」であった潜水艦は「適用外」と見なされ、第二次世界大戦では連合国、枢軸国に関係なく、日本も含め双方が無制限潜水艦作戦を実施していました。
ただ、病院船など人道的援助を目的とする船舶に限っては、おおむね安全は配慮されていたようです。
Q9. アメリカの潜水艦は「学童の乗船」を知っていたのですか?
学童疎開の児童が乗った船であることはまったく知らなかったと言われています。
ただ、アメリカは日本海軍の暗号を解読しており、対馬丸の航路もわかっていました。「ボーフィン号」も追跡中の様子から「重大任務の船団」だと感じていたようです。
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