撃沈から72年「対馬丸の悲劇」を深く知るQ&A 「子どもら約1500人が死亡」史実に何を学ぶか

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今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

9割以上の子どもたちが亡くなった

Q1. はじめに、対馬丸事件の概略をお聞かせください

1944年8月22日、日本の貨物船「対馬丸」が、アメリカの潜水艦によって撃沈された事件です。

乗っていたのは、半分近くが沖縄から疎開する子どもたちでした。年齢は今でいう小学生の子どもたちが大半だったと言われています。

その「学童を含め約1800人が乗っていた」貨物船が撃沈され、9割以上の子どもたちが亡くなった、いまなお語り継がれている「戦争の悲劇」のひとつです。

Q2. 全国ではどのくらいの子どもたちが「学童疎開」していましたか?

そもそも当時の日本では、全国で約42万人の学童が集団疎開していました。理由は、1944(昭和19)年7月の連合国軍によるサイパン島占領です。

日本のほぼ全域がB-29爆撃機の「空襲圏内」となり、政府は重要都市に住む学童を比較的安全な地方に避難させるため、学童疎開を実施したのです。

Q3. なぜ沖縄から学童疎開したのですか?

それも「サイパン島の玉砕」が直接的な教訓です。

サイパン島では将兵、住民もろとも「玉砕」するという悲惨な結末を招きました。そのため、沖縄では、学童を含む沖縄県民10万人の日本本土と台湾への疎開が、政府の命令によって決定したのです。

県民の疎開は、アメリカ軍による沖縄上陸が始まる直前の1945年3月まで続けられました。

Q4. 対馬丸はどのような船だったのですか?

「民間の大型貨物船」(日本郵船所属、6754トン)です。この船は日本郵船でも初期の重要貨物船として有名で、もともとは大正初期から横浜とニューヨークを結ぶ航路などで活躍していました。

太平洋戦争が始まると軍に強制的に徴用され、南方への物資輸送に長く従事。その間、対馬丸は何度も敵潜水艦からの魚雷攻撃を受けますが、幸運にもたいした損害を受けることなく、日本へ帰港していました。

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