必死だった半年間
余裕などいっさいなくなった僕は、朝から晩まで、文字どおり死ぬほど勉強した。負けん気が強かったといえば聞こえがよかろうが、それよりも、自信満々で日本を出てきた手前、このままでは帰れないという、追い詰められた気持ちのほうが大きかったように思う。
ディスカッションでは勝ち目がないと悟った僕は、代わりに自分一人でできることに力を注いだ。人工衛星設計の授業のチームプロジェクトでは、ミーティングで方針を話し合った後、おのおのに仕事を割り振って、調査、研究、リポートの執筆を行う。僕はミーティングで自分の主張が通らないことは黙って我慢し、寮に帰った後、自分に割り振られた分の仕事を必死で頑張った。しゃべって自分を主張する代わりに書いてアピールし、チームメートや先生に認めてもらおうと思ったのだ。
RA探しも、なりふり構わず、泥臭く立ち回った。格好だの自尊心だのを気にしている場合ではなかった。人工衛星設計の授業を教えている先生が、僕が付きたいと思っていた先生の一人だったのだが、彼の授業中、たとえすでに僕が知っていることでも、知らないフリをして手を挙げて質問した。そうすることで存在感をアピールし、名前を覚えてもらい、「この生徒は鋭い質問をするな」と思わせるためだった。
その先生にもRAはないと一度は断られていたのだが、ならばおカネはいらないから研究室でタダ働きさせてくれと食い下がり、研究課題をもらった。それで結果を出せば、次にRAのポジションが空いたときに、きっと自分に回ってくるだろうという魂胆だった。
そんな精神がすり減るような努力が初めて報われたと思った瞬間を、今でも鮮明に覚えている。人工衛星設計の授業で提出したリポートの、僕が書いたセクションに、先生がこんなコメントを付けてくれたのだ。
”Despite the grammatical and spelling problems, this section is technically excellent.” (文法やスペルに問題があるが、このセクションの技術的内容はすばらしい)。
もっともこれは、毎週提出するリポートに何十と付けられるコメントのひとつにすぎない、ほんのささいなことである。それでもMITに来て以来、話しても相手にされず、RAも見つからず、自信を喪失する一方だった僕にとって、初めてMITの先生が、しかも僕が付きたいと思っていた先生が、僕を認めてくれた瞬間だったのだ。夜中に寮の部屋で一人、Eメールで送られてきたそのコメントを読んで、僕は飛び上がらんばかりにうれしかった。
それ以後、少しずつ歯車が回り出していくのを感じた。
教室で一人の友人ができた。彼は宿題のわからない箇所をいつも僕に聞きに来た。僕を、授業の内容を理解しているやつだと認めてくれたのがうれしかった。逆に彼は、僕が書いた間違いだらけの英文の添削をいつも快く引き受けてくれた。
また、腹の底から笑いながら楽しく酒を飲める日本人以外の仲間を初めて見つけた。彼らのほとんどは同じ寮に住むヨーロッパやアジアからの留学生だった。多かれ少なかれ、同じような留学のつらさ、寂しさを経験した者同士だったから、仲良くなりやすかったのだろう。
そして、MITに来て半年後、チャールズ川が凍りつく厳冬の2月に、僕はついにRAを手にした。例の人工衛星設計の授業を教えていた先生ではなかったのだが、彼が似た研究をしている別の先生に僕を推薦してくれたのだ。苦労が報われた。喜んで親に報告した。僕はその先も、MITに残れることが決まった。
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