(第4回)阿久悠“休筆”宣言を読み解く
高澤秀次
●1979年、突然の“休筆”宣言
「70年代が終わる頃から、歌の匂いがしなくなった」
阿久悠のこの発言を、さらに追ってみよう。
先の『人間万葉集』のインタビューで、阿久悠はこんな聞き捨てならないことまで語っている。
「79年に、ぼくはヒステリーを起こしたみたいに休筆なんて言って、ほとんど何の根拠もないのに半年休んだことがあるんですけど、おそらくそういう気配をどこかで感じたんです」
自伝的回想『生きっぱなしの記』では、「全力でスイングしているのに、空気を切る音がしないと言ったらいいだろうか。ぼくに問題があるのか、時代に問題があるのか、真空の器の中で力み返っている感じが、時々だがし始めた」と、休筆時の心境を語っている。
時代が「真空の器」に思えてきたのには理由があった。
自らも語るように、ワープロ、パソコン、電卓、電子楽器などのIC関連商品が、家電製品の世界を席巻し始めたのが、同じ79年に顕著な社会現象だったのだ。アナログの時代からデジタルの時代への最も見やすい変化の兆しである。
歌がなくても楽しめる世の中の到来に、阿久悠は危機感を強めた。
1978年に自己最高の31曲の作詞を手がけ、ヒットメーカーの名を欲しいままにしていた彼は、翌79年には12曲に減速、同年9月、不発に終わったピンク・レディー最後の楽曲『マンデー・モナリザ・クラブ』のあと、80年4月発売の八代亜紀『雨の慕情』まで、半年間"休筆"状態にあった。
何が阿久悠に、この突発的な「ヒステリー」を起こさせたのだろう。
さしたる根拠もないのに、「そういう気配をどこかで感じた」とは、具体的にどういうことか。
●「ヘッドホンで聴く音楽は、点滴である」
そもそも1970年代末とは、どういう時代だったのか。
今から振り返るとそれは、「昭和」の時代感覚が急速に薄れ、高度成長を達成した戦後日本が、新たな目標を見出せないままに、アメリカに次ぐ経済大国として、国際社会のただ中に漠然と漂流し始めた時代だった。79年の世相は、端的にそれを表していた。
国際石油資本(メジャー)の対日原油供給の削減通告(第二次石油ショック)で明けたこの年、政府はビルの暖房を19度以下にするなどの石油消費削減対策を発表、本格的な省エネ時代に突入する。
「鉄は国家なり」に象徴される"重厚長大"路線に翳(かげ)りが生じ、なし崩し的に"軽薄短小"の時代へのシフトが始まろうとしていた。
戦後歌謡史との接点で見ると、この転換期に現れた軽薄短小のコンセプトに基づく画期的商品が、79年にソニーが開発したヘッドホーンステレオ、「ウォークマン」だった。
ラジオからテレビへの流れは、流行歌からアイドル歌謡への変遷を助長した。これに続くステレオからウォークマンへの流れは、音楽の視聴環境に、ある決定的な変化をもたらすことになる。
iPod(アップル社)の開発にまでつながる視聴環境の内向化、自閉的オタク化がそれだ。
昭和歌謡から平成Jポップへの急転回は、その止め難い潮流の行き着くところでもあった。阿久悠は苦々しくこう語る。
「ヘッドフォンで聴く音楽は点滴だ」と。
もはやそこでは、「歌の匂い」は消えてしまっていたのだ。
流行歌の内向化、視聴環境のオタク化の現象を捉えて、音楽が聴かれるではなく、耳から打ち込まれる「点滴」と化したと最初に語ったのは、1980年代初頭のことである。以後阿久悠は何度もこの警告を反復、死の10年前にはうっ憤晴らしのように、『書き下ろし歌謡曲』で、曲のつかない百篇の詞を、わずか20日間で書き上げた。
百篇の恋歌を二十日で書き上げて臨終の床の色魔の思い
これは、『書き下ろし歌謡曲』のエピローグに書き込まれた、さながら辞世のような阿久悠の短歌である。
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