(第4回)阿久悠“休筆”宣言を読み解く

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●アンチ・ヒロイン型「松田聖子」の登場

 ところで、70年代から80年代へのこうした変化によって、アイドルの時代が、ただちに幕を閉じたわけでは決してなかった。ただその現れ方が、同じではあり得なかったのだ。
 阿久悠が真剣にコミットしたテレビ番組、『スター誕生!』が代表するアイドル育成システムが、大きく様変わりしつつあった。阿久悠が語る、「歌謡曲の黄金時代、唯一作品論が語られた作家の黄金時代」(『生きっぱなしの記』)の終わりの予感である。

 その最もわかりやすい例が、最後の歌謡アイドル松田聖子の出現である。
 そのデビューは、ずばり1980年である。
 阿久悠は、彼女が『スター誕生!』を素通りしてデビューし、トップアイドルの座に昇りつめたことに衝撃を受けた。小林亜星との対談で彼は、この松田聖子の成功によって『スタ誕』が時代とずれてきたのかもしれないという危機感を抱いたと語る(『命の詩』所収、「美空ひばりからピンク・レディーまで歌謡曲ベスト100を選ぼう」)。

 松田聖子--この元祖ブリッコは、歌の上手さもさることながら、いつでもウソ泣きのできる特異なキャラクターとして人々の注目を集めた。彼女を一躍スーパースターにしたのは、『白いパラソル』で初めてコンビを組んだ、松本隆という天才的な作詞家との出会いによってである。
 だが、その売り出しは、正統派アイドルというより、敵役(かたきやく)のアンチ・ヒロイン型だったのだ。
 誰に対する?
 言うまでもなく、聖子のデビューと入れ替わるように、1980年3月、日本武道館でのお別れコンサートを最後に、きれいさっぱり芸能界から足を洗った山口百恵に対する"アンチ"としてである。

●“休筆”の理由

 阿久悠という天賦の作詞家にして、市場化能力に長けた業界の仕掛け人は、なぜか70年代から80年代への変遷を最も劇的に象徴する、この二人の対照的なアイドルとまったく接点を持たなかった。
 1979年に彼を見舞った、休筆につながる一時的なパニックは、おそらくどこかでこのこととつながっていたのだ。

 二人のアイドルは、素材の神秘性(山口百恵)と、素材の擬装性、すなわちそのブリッコぶり(松田聖子)において際立っていた。前者の神話の持続性、後者のスターとしての耐久性は、80年代をはるかに超え、現在もなお健在と言っていい。
 だが、阿久悠が手がけたのは、いずれも時代とともに過ぎ去っていくヒーローやヒロインだった。ピンク・レディー、沢田研二、桜田淳子、岩崎宏美……。

 70年代の絶頂期の感覚を、自ら制約を気にしなくてすむ「映画のプロデューサー」にたとえ、博覧会のパビリオンをイメージして、ピンク・レディーを育てたと豪語した阿久悠。彼に特徴的なのは、広告代理店的な企画力と採算性であり、市場化可能性とそのためのプロジェクトであった。
 この枠組みを毀すアイドルが現れ、戦後歌謡の不動のイメージの揺らぎが顕著になった時、それが彼の言う「歌の匂いがしなくなった」時なのである。

 売れっ子作詞家の休筆という異常事態は、間違いなくそこで起こった。


高澤秀次(たかざわ・しゅうじ)
1952年生まれ。早稲田大学第一文学部卒。文芸評論家
著書に『吉本隆明1945-2007』(インスクリプト)、『評伝中上健次』 (集英社)、『江藤淳-神話からの覚醒』(筑摩書房)、『戦後日本の 論点-山本七平の見た日本』(ちくま新書)など。『現代小説の方法』 (作品社)ほか中上健次に関する編著多数。 幻の処女作は『ビートたけしの過激発想の構造』(絶版)。
門弟3人、カラオケ持ち歌300曲が自慢のアンチ・ヒップホップ派の歌謡曲ファン。
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