私とサムスンの李さんとの和解 シャープ元副社長・佐々木正氏③

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ささき・ただし 1915年生まれ。京都大学工学部卒。神戸工業(現・富士通)取締役を経て、シャープ副社長、顧問。電卓の生みの親。シャープを日本有数の家電メーカーに育て、日本の半導体産業の礎を築いた。現在はNPO法人・新共創産業技術支援機構の理事長を務める。

九十にして今度は恩に報いる

シャープと韓国サムスンの関係は長きにわたります。サムスンは商社から始まって、電器産業に進出したが、半導体の開発で行き詰まった。それで、李健熙さん(現会長)がわざわざ訪ねてこられた。1970年ごろのことです。

当時、日韓定期閣僚会議が始まり、両国間で提携の機運が高まっていました。ところが、日本電気の小林(宏治・元会長)は、「韓国は技術を盗んでいく」と警戒感をあらわにしていた。困った李さんが、「何とか小林さんを納得させてほしい」と。そこで駐日韓国大使と小林さん、李さん、私とで食事する機会を作ったんです。その後、私以外の3人でゴルフに行ったら、小林さん機嫌直しちゃったらしいんだ(笑)。

それ以降、李さんが頼りにしてこられるんです。半導体の開発にしても、「佐々木さん、辞めてこっちへ来ませんか。韓国籍にならんか」とまで言う(笑)。じゃあ、僕がシャープを説得するから、頭を下げて技術を教えてくださいと言ってくれ、と。数年間、4ビットマイコンの製造技術の提携をしました。

サムスンが何かの記念式をするときは軍隊式でしたね。社員が第1連隊、第2連隊……の順で並ぶ。第1連隊って、第1工場のことですよ。その根性で成果を上げていった。

そうなると欲が出る。「今度は液晶を教えてくれ」と言ってきた。僕は断った。「依頼心はサムスンを殺す」と。李さんは納得してくれたが、その部下になると、そうはいかない。盗んででもやるんだ。フライデーフライトでうちのキーマンを韓国に連れていく。連中は土日に働いて日曜夜、サンデーフライトで帰ってくる。シャープは最後には技術幹部のパスポートを全部預かっちゃった。

そのときも、私個人は、「与えられるものどんどん与えて、感謝してくれればいい」と思っていた。少なくともシャープの味方にはなるだろうとね。ところが、李さんがトップを離れた時期に、サムスンがシャープを相手に特許訴訟を起こしたんです。あれはサムスンが情けなかった。

李さんは、シャープに感謝しとるからね。李さんがトップに復帰した後、直接話をして、和解しました。

孔子は73歳で死んでいますから、『論語』に「七十にして矩(のり)をこえず」の次はありません。97歳の私が言うならば、「八十にして恩を知る」でしょうか。人間は自分一人でなく、いろんな人のおかげで生きとるんです。そして、「九十にして今度は恩に報いる」。そうすれば百で人生を終えるとき、幸福でいられるはずです。

週刊東洋経済編集部
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