貧しいのに客人をもてなすーーケニア人の「持たない豊かさ」が教えてくれること。日本人と異なる"所有"の感覚、その驚きと心地よさ

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ケニア滞在中、その感覚に驚かされる瞬間が何度もあった。ある日、チャーターしていた車の運転手に「そのカメラ、いくらするんだ?」と聞かれたことがある。

正直に「結構、高かったんだよね。15万円くらいかな」と答えると、運転手は一瞬で顔を輝かせてこう言った。

「Wow!それは高いな。じゃあ、俺にくれ」

見ると冗談を言っている様子ではない。「もらえたらラッキー」くらいの感覚ながら、真面目に言っているようだった。

あまりのストレートさに、一瞬応じそうになったが、渡してしまっては取材で訪れた自分が困るだけだと思い至り、冗談を返してその場をしのいだ。

私は自分の持ち物をとっさに「守って」しまったわけだが、彼らの所有の概念の薄さに対して、どこか気持ちよさを覚える感覚もあった。それが貧しさからきているものであるとするならば簡単に賛美することはできないが、「自分の大切な人たち」以外、守るものが限りなく少ない彼らの生き方に、どこか自由さを覚えたのである。

分けることは「他人と生きること」

ジョセフの家でチキンを振る舞われた日のことを、日本に戻ってからも何度も思い返す。彼の家族は、貧しいからこそ抱え込まず、むしろ所有から自由になることで、つながりを得ていた。

一方で先進国では、私たちの暮らしはどんどん個人化し、ほとんどのものは「自分で守るべきもの」になった。自分自身、無意識に「自分のもの」と「他人のもの」に強固な境界を引き、誰かのものに手出ししない代わりに、自分のものを奪われないようにしている。

ところで、「自分のもの」とはなんだろうか。財布に入ったお金や、家の鍵、スマホ、カメラ。確かに所有者は私だが、それはただ名義がそうなっているというだけの話とも言える。

そして背後には、生まれた国、受けた教育、親の経済状況、たまたま入社した会社、運良くつながった誰かの縁などあらゆる偶然が積み重なっている。

そうした無数の要素が重なった結果、私は「自分のもの」と呼べる何かに囲まれているわけである。でもそれは、厳密に言えば私自身だけの力で獲得したものではないはずだ。

ジョセフの家族は、「自分のもの」と「他人のもの」の境界線を最初から薄くして生きている。それは言い換えれば、人が誰かと生きるための「構え」のようにも見えた。

「所有」は自分が生きるために他の誰かから一時的に預かっているものだとすれば、私たちが守っていると思っている境界線は、時に自分自身を狭め誰かとつながる可能性を閉ざしてしまっているのかもしれない。

少し拡大解釈をすれば、ジョセフの家の食卓で出されたチキンは、ただの料理ではなく、「この世界はあなた一人で完結していない」ということを示していたのかもしれない。

こんなことを書ていると、ちょうどジョセフからスマホに「Hi Long Time」とメッセージが届いた。

何か困ったことでもあったのかもしれない。そして、きっといつものように何か頼み事をされるのだろう。そうして深まっていく関係性を、どこか心地よく感じている。

80億分の1コマ
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泉 秀一 ノンフィクションライター

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いずみ・ひでかず / Hidekazu Izumi

2013年に関西大学社会学部卒業後、ダイヤモンド社入社。週刊ダイヤモンド編集部を経てNews Picksへ。副編集長、編集長を経て24年春に独立。著書に「世襲と経営 サントリー佐治信忠の信念」(文藝春秋)

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