二代目は葛飾北斎とタッグも三代目から経営不振…大河「べらぼう」蔦屋重三郎亡きあとの耕書堂はどうなったのか

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狂歌を詠む会を開いて狂歌ブームを仕掛けたり、ともに狂歌本を作ったりもした。蔦重自身も「蔦唐丸」(つたのからまる)と号して狂歌師になるなどノリノリだったことも、思い返せば、互いのよい思い出となったことだろう。

それだけに病に倒れた蔦重の回復を願う気持ちも、人一倍強かったに違いない。

だが、その思いが届くことはなかった。蔦重が寛政9(1797)年5月6日に亡くなると、翌日の葬儀に、南畝も参列している。

蔦重が残した彼らしい最期の言葉

蔦重の臨終については、いかにも彼らしいユーモアあふれる逸話が残っている。

5月6日に死期を悟った蔦重は「今日の午の刻に自分は死ぬだろう」と予言したという。午の刻ということは昼12時である。それまでに蔦重は自分が亡くなったあとの仕事のことをいろいろと周囲に指示し、妻と別れの言葉も交わした。

準備は万端。あとは旅立つだけという時刻になったが、お迎えが一向に来ない。思わず蔦重はこう苦笑したという。

「自分の人生は終わったが、いまだ命の幕引きを告げる拍子木が鳴らない。遅いではないか」

これが蔦重の最期の言葉となり、夕刻にその生涯の幕を閉じる。享年48だった。

蔦重の墓は浅草の正法寺に建てられた。碑には「喜多川柯理」と蔦屋重三郎の本名が刻まれ、碑文は蔦重との親交が深い石川雅望(宿屋飯盛)と大田南畝(蜀山人)が手がけた。

碑文では、前述したような臨終の様子が綴られたほか、蔦重のこれまでの功績に触れながら、どんな点に優れていたかも紹介されている。

「大きな志を持ち才知に優れて、度量の大きさから細かいことにこだわらず、人間関係では信義を尊重した人物」(志気英邁にして、細節を修めず、人に接するに信を以てす)

さらに出版人として成功した理由についても、こんなふうに評している。

「発想力や先を見通す力においては、他人が到底及ぶものではなく、ついに事業が成功して、大商人となった」(其の巧思妙算、他人の能く及ぶところにあらざる也。ついに大賈と為る)

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