飯盛は、天明5(1785)年に狂詩本『十才子名月詩集』(じっさいしめいげつししゅう)を蔦重のもとで刊行する際に、編纂を担当。さらに翌年の天明6(1786)年にも、著名な狂歌師50人の図像と狂歌を取り合わせた「狂歌絵本」を世に送り出すにあたって、蔦重から編纂を任せられている。
碑文を書きながら、飯盛もまた蔦重との思い出にふけったことだろう。
蔦重亡きあとの耕書堂の行方
蔦重の死後は、番頭の勇助が二代目の「蔦屋重三郎」を襲名した。
二代目蔦重は、蔦重と親交が深かった山東京伝や北尾重政らに本を書いてもらうなど、初代蔦重の路線を踏襲。蔦重のもとで手代として働いた瑣吉も「曲亭馬琴」として、二代目のもとで本を書いている。
また、葛飾北斎も、二代目蔦重と数多くの作品を発表することになる。寛政11(1799)年に『画本東都遊(えほんあずまあそび)』を世に送り出し、その翌年には『東都名所一覧(とうとめいしょいちらん)』を発表するなど、立て続けに発刊している。
二代目蔦重は、初代のようにアイデアが豊富だったわけでもなければ、プロデュース力に長けていたというわけでもなかったようだが、堅実な経営で事業を安定させることには成功したといえるだろう。
だが、その後の三代目の代から、耕書堂は経営不振に陥ることになる。店は日本橋通油町から浅草寺の雷門外へ移転を余儀なくされた。吉原細見の株も、同業者の伊勢屋三次郎に譲渡している。
出版のトレンドが黄表紙から読本、さらに合巻へと移行し、浮世絵の世界でも歌川派が隆盛を極めるなかで、時流に合ったビジネスをうまく展開することができなかったようだ。
そのあとを継いだ四代目は、地本問屋の株を山田屋庄次郎に譲ったとされている。経営的には、かなり厳しい状況へと追い込まれたらしい。
文久元(1861)年10月1日、四代目が没した年に耕書堂は廃業。初代の蔦重が安永2(1773)年に吉原で開業してからおよそ90年で、耕書堂の歴史は幕を閉じることとなった。
【参考文献】
大田南畝著『會計私記』(濱田義一郎写、1942、九州大学附属図書館所蔵)
鈴木俊幸著『蔦屋重三郎』(平凡社新書)
鈴木俊幸監修『蔦屋重三郎 時代を変えた江戸の本屋』(平凡社)
倉本初夫著『探訪・蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人』(れんが書房新社)
山村竜也監修・文「蔦重の復活と晩年 その後の耕書堂」(『歴史人』ABCアーク 2025年2月号)
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