豊臣政権を崩壊させた原因は何だったのか――秀吉の"逆上"がもたらした「秀次事件」の残虐さから考える暗黒の未来

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あまりにもひどすぎます。義光がのちの「関ヶ原の戦い」で、何がなんでも徳川につくのは当たり前です。

ほかにも、連座しかけて家康に助けられ、関ヶ原の戦いで東軍についた武将、多数。何やってんだか。

秀吉には親族が少ないのです。秀次は唯一の身内でした。秀頼が成長するまで、豊臣家を支えてもらわねばなりません。

これを秀頼の実母の淀殿が「秀次に天下を奪われては」と疑ってもおかしくありませんし、自然とそういう派閥ができます。それを抑えるのが、秀吉の役目です。

秀次事件の際、秀吉59歳、秀頼2歳、秀次28歳です。

秀吉が20年生きれば円滑に政権移行できたでしょうから、何としても秀頼の成長まで生きるのが、義務なのです。ところが、秀吉の寿命があと3年しかなかったのみならず、秀次を死に追いやる。

秀吉は逆上しすぎ

ただ、秀次に関白を譲るのが早すぎたと後悔したとする従来の通説は、以上の理由でおかしすぎます。

秀次事件までは、秀吉は秀次を引き立て、秀次も期待に応えようと忠節に励んでいるのです。そもそも、秀吉が真っ先に死んだら、誰が秀頼を守るのか。史実では誰も守れませんでした。

隙間風が吹いて誤解が生じ、秀次を反省させるために高野山に閉じ込めたところ、勝手に切腹したので秀吉が激怒したなどの説もあります。

この説は、だから秀次が住んでいた聚楽第を跡形もなく破壊し、妻子を会ったこともない側室も含め、皆殺しにしたと続きます。実際のところ、わかりません。

ただ、豊臣政権が続かなかった理由として、「秀次事件」をあげないわけにはいきません。

秀吉は逆上しすぎです。

秀頼が淀殿と秀吉の子ではないと落書きされて狂ったようになるのは、キレやすくなっている証拠です。「俺は信長のように甘くはないぞ」と信長を呼び捨てにしたとの逸話も伝わるくらい、短気になっていました。

人は年老いると怒りっぽくなりやすいのでしょうか。

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