豊臣政権を崩壊させた原因は何だったのか――秀吉の"逆上"がもたらした「秀次事件」の残虐さから考える暗黒の未来

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豊臣秀次像 瑞泉寺蔵
豊臣秀次像(瑞泉寺蔵)。秀次の下に殉死した隆西堂、山本主殿、不破万作、山田三十郎、雀部淡路守[注釈 51]を配す(パブリック・ドメイン)

やられた側からしたら災難以外の何ものでもありませんから、「侵略」呼ばわりしてもいいのですが、やった側は本気度を疑われてしかるべきです。秀吉らしくない。

結局、朝鮮出兵は途中の中断をはさみながら、秀吉の死後まで続きます。文禄の役・慶長の役と呼ばれます。

一般には朝鮮出兵が豊臣政権崩壊の要因とされますが、一因であるのは間違いない。しかし、秀吉死後の撤兵がルーティンで行われているのですから、それが原因で滅んだのではありません。

そんなことより、国内で不穏な空気が流れます。

秀吉の後継者と目されていた

鶴松が生まれる前から、秀吉の実姉の子であり甥である羽柴秀次は、養子として秀吉の後継者と目されていました。豊臣の氏を賜り、関白秀吉の直系として公家として出世街道を歩みます。そして天正19(1591)年には関白を譲られています。

もちろん、実権は秀吉が握っており、秀次は秀吉の決めたことを無難にこなすだけですが。

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