豊臣政権を崩壊させた原因は何だったのか――秀吉の"逆上"がもたらした「秀次事件」の残虐さから考える暗黒の未来

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のちに非業の最期を遂げることから、実子が生まれた秀吉に疎まれたと解釈されてきたのですが、最近は見直されています。現に、鶴松が生きていた時代は疎まれていませんし。

そして突如、「秀次事件」が発生します。従来の通説では、関白なのに秀次は謀反の疑いをかけられ、高野山に入り、文禄4(1595)年7月15日、秀吉の命令で切腹させられたとなっています。

秀次の子女・妻妾ら30人以上も京都三条河原で処刑されました。

実子拾丸(ひろいまる・のちに秀頼)が生まれて秀吉自身が疑心暗鬼になったのが原因とも。秀次は「殺生関白」と陰口されるほど素行が悪く、秀吉が咎(とが)めたともされます。

豊臣秀頼像
豊臣秀頼像(養源院蔵)(パブリック・ドメイン)

大事な事実は3つある

確実に事実といえるのは、大事なことで3つくらいです。

秀次が高野山で自害したこと。連座多数だったこと。処刑された中には、秀次の側室となる予定だったけど、まだ秀次に会ったこともない最上義光の娘もいたことです。

よせばいいのに、無駄に義光の恨みを買って、敵に回すおまけつきです。

義光は出羽国の大名で、伊達政宗の伯父にあたる人です。義光の娘、駒姫(こまひめ)は秀次の側室に迎えられようとしていました。“東国一の美女”と評判の駒姫は15歳。秀次にまだ一目も会っていないまま秀次事件に巻き込まれ、最上義光らの嘆願も叶わず、処刑されてしまいます。

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