落書きにキレるなど、晩年の秀吉は「痴呆」と言ってもおかしくない状態にあった、と憲政史家・倉山満氏は言います(写真:yuuno177/PIXTA)
豊臣秀吉の後継者と目されていた秀次だったが、秀吉に嫡子・秀頼が誕生した後、蟄居(ちっきょ)処分を受け、その後、秀吉の命令により切腹させられた。秀次は三条河原でさらし首になったが、その際に眷族(けんぞく)もことごとく処刑された。
人は老いると怒りっぽくなるというが、「秀次事件」における秀吉の逆上ぶりは度を越えていた。もしかすると、秀吉は20年後に訪れる豊臣家の滅亡という「暗黒の未来」を見てしまったのかもしれない。
※本記事は倉山満 著『秀吉再考』より、一部を抜粋編集したものです。
豊臣政権と「秀次事件」
朝鮮出兵は「唐入り」でなくなった時点、朝鮮を舞台にした戦いに終始した時点で、失敗です。
最初から武将たちには厭戦(えんせん)気分が蔓延。秀吉も真面目に侵略していない。よく「秀吉の朝鮮侵略」と言われるのですが、本気で侵略するなら、プロパガンダと間接侵略をやればいい。
しかし、朝鮮人への調略を仕掛けていません。事前に徹底的な地域研究を行い、語学ができる宣撫(せんぶ)要員を大量養成し、事前に朝鮮宮廷にも間接侵略を仕掛けておく。しかし、これらを一切やっていない。
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