なぜ秀吉は"勝てる戦い"を放棄した?敗北した「朝鮮出兵」で封印したプロパガンダと間接侵略という2つの戦略
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謎の多い秀吉の朝鮮出兵について考察する(写真:Daikegoro/PIXTA)
戦国時代の戦いは「プロパガンダ」と「間接侵略」が基本中の基本。とりわけ豊臣秀吉は、その戦略においてはチャンピオンともいえる存在である。なのに、朝鮮出兵で秀吉は、その「勝ち戦略」を封印してしまっている。
戦国武将のうちでも特に戦の戦略に長けていた秀吉は、なぜか「朝鮮出兵」では「プロパガンダ」と「間接侵略」という得意の戦略をとらなかった。憲政史家・倉山満氏が、謎の多い秀吉の朝鮮出兵について考察する。
※本記事は倉山満著『秀吉再考』より、一部を抜粋編集したものです。
釜山鎮の戦い(1592年)。『釜山鎮殉節図』(パブリック・ドメイン)
秀吉の朝鮮出兵の問題は?
秀吉が53歳のときに、側室淀殿との間にできた子供が、鶴松です。「捨て子は育つ」などと世間で言われていたところから、丈夫に育つようにと願いを込めて“捨丸(すてまる)”とも呼ばれていましたが、実際は溺愛。
しかし、鶴松は僅か3歳で亡くなったのです。だから、朝鮮出兵は「秀吉の長子鶴松が亡くなった腹いせだ」などと言われるのです。
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