なぜ秀吉は"勝てる戦い"を放棄した?敗北した「朝鮮出兵」で封印したプロパガンダと間接侵略という2つの戦略

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もっと根本的なところでは、この戦争目的を明らかにしていません。

朝鮮出兵は後世の呼び方で「唐入り」です。国名は明に変わっていましたが、チャイナをシナと呼ばず、「唐」「漢」「漢土」などと呼ぶのが通例でした。チャイナに攻め込む通路が朝鮮で、秀吉は戦前に「朝鮮に道案内しろ」とすら要求しています。

これらすべて、味方にも敵にも本気にされていません。

他にもやりようがあった

朝鮮出兵は、余剰軍人救済のためだったのではないかとの見方があります。秀吉の天下平定が進むにつれて軍人が余って、それを放っておくと浪人による革命が起きそうなので、一種のガス抜きをしたとの考えです。

しかし、だからと言って朝鮮出兵は必然ではありません。朝鮮出兵をやったほうが軍人救済になる解決性はあるのですが、その方法でしか解決できないわけではなく、ほかにも方法はいろいろあるからです。

たとえば、江戸時代になってからですが、山田長政がシャム(現在のタイ)に渡り貿易に従事したように、海外に行って活躍し、いつでも帰っていらっしゃいとするのもよし、あるいは、それほど力が余っているのであれば、いっそ、エリザベス朝のドレイクのように、植民地を天皇に献上せよ、などの方法もあるわけですから。

『秀吉再考』
『秀吉再考』(ワニブックス)。書影をクリックするとアマゾンのサイトにジャンプします

大貿易圏を作るための戦争だったとの説もあります。本当でしょう。

信長は晩年に大陸との貿易を考えていました。なかには「信長は貿易をしろと言っただけで、大陸や半島を侵略しろとは言っていない」とする人がいます。しかし、信長の朝倉攻めからして、京都から日本海にかけての貿易圏構築が狙いです。

秀吉が明を侵略するのは、織田が朝倉にやったのと同じです。日本も世界も戦国時代。それを理解せずに、狂ったと言われても。もっとも、秀吉もあんまり真面目に説明していないのが悪いのですが。

朝鮮出兵は戦争目的の徹底がなされず、勝ちパターンを捨てていたのが問題なのです。

蔚山籠城図屏風(断片) - 福岡市立博物館所蔵
蔚山籠城図屏風(断片) - 福岡市立博物館所蔵(パブリック・ドメイン)
倉山 満 皇室史学者、憲政史家、(一社)救国シンクタンク理事長兼所長

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くらやま みつる / Mitsuru Kurayama

昭和48年、香川県生まれ。平成8年、中央大学文学部史学科国史学専攻卒業。同大学院文学研究科日本史学専攻博士後期課程単位取得満期退学。主な著作に、『教科書では絶対教えない 偉人たちの戦後史』(ビジネス社)、『嘘だらけの日米近現代史』などをはじめとする「嘘だらけシリーズ」、『沈鬱の平成政治史 なぜ日本人は報われないのか?』(いずれも扶桑社)、『検証 検察庁の近現代史』(光文社新書)、『ウッドロー・ウィルソン全世界を不幸にした大悪魔』(PHP新書)、『史上最強の平民宰相 原敬という怪物の正体』(徳間書店)、『バカよさらば プロパガンダで読み解く日本の真実』『若者に伝えたい 英雄たちの世界史』『救国のアーカイブ 公文書管理が日本を救う』『決定版 皇室論 日本の歴史を守る方法』(いずれもワニブックス刊)など多数。ブログ「倉山満の砦」やコンテンツ配信サービス「倉山塾」や「チャンネルくらら」などで積極的に言論活動を行っている。

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