なぜ秀吉は"勝てる戦い"を放棄した?敗北した「朝鮮出兵」で封印したプロパガンダと間接侵略という2つの戦略
秀吉が狂ったと思われたのは、秀吉自身に責任があります。といっても、その責任の中身、「中国>朝鮮>日本」の格付けで世界を見ている人には理解できないでしょうけど。
なぜ秀吉に責任があるか。一義的には、勝てるはずの戦いだったからです。少なくとも、ある程度までは占領・併合して当たり前です。日本は世界有数の軍事大国なのですから。
明や朝鮮からすれば、ただの災難。釜山に上陸してから半月ちょっとで漢城(現在のソウル)を落とし、そこから約1カ月で平壌にまで攻め込む異常なまでの進撃速度です。そのまま真面目に侵略をやっていれば、寧波(ねいは)まで取ってもおかしくない勢いです。
ところが、秀吉軍は勝ちパターンを捨てているのです。
プロパガンダのチャンピオン
秀吉の勝ちパターンは、プロパガンダと間接侵略です。出世のきっかけとなった、美濃攻めでも近江攻めでも、調略の才をいかんなく発揮しています。
中国地方への進軍でも然り。
戦国時代はプロパガンダと間接侵略が基本で、合戦など選挙の投票日のようなもので総仕上げ。プロパガンダと間接侵略のチャンピオンの秀吉が天下統一をするのは、自然なのです。
山崎の合戦でもその才を縦横無尽に発揮しましたし、その後の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いでは前田利家の裏切りが、小牧・長久手の戦いでは信雄の三家老の裏切りがありました。そして小田原攻めも、小田原評定を引き起こすように仕向けて、勝ちました。


















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