信長が本当に頼ったのは秀吉ではなく光秀だった――与えられた城の「京都からの距離」でわかる信長の"真の評価"

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明智光秀像
光秀は「スパイマスター」だった!? 史料や肖像画から明智光秀の人物像を探ります(写真:Hick/PIXTA)
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織田信長の下には2人のインテリジェンス・マスターがいた。愛嬌(あいきょう)を振りまいて相手の警戒心を解かせる豊臣秀吉。上品かつ優しそうな顔立ちで近づいて相手を取り込む明智光秀。いずれも腹の底では敵を調略しようと虎視眈々(こしたんたん)……。
怒濤(どとう)の勢いで出世していった秀吉だったが、そんな秀吉のもっと上をいっていたのが光秀だった。少なくとも天正元年の時点では、秀吉は光秀に次ぐ二番手とみられていた、と憲政史家・倉山満氏は言う。
※本記事は倉山満著『秀吉再考』より、一部を抜粋編集したものです。

光秀のほうが格上だった?

豊臣秀吉は近江で大名になりました。織田家の有力武将の一角です。

ただし、ワンオブゼム。織田家には先代からの重臣の林秀貞(通勝)や佐久間信盛がいて、彼らが形式的には筆頭。柴田勝家や丹羽長秀も古参。信長は人材登用の抜擢人事を行った戦国大名で、秀吉や、忍者出身とも言われ得体が知れない滝川一益も重臣に。

しかし、本当に頼りにしたのは、明智光秀でしょう。明智光秀は秀吉の後から織田家にやってきたのですが、功績が抜群です。

鉄砲隊を使いこなす、実は織田軍最強の武将。各地を転戦します。外交謀略調略、なんでもござれ。内政でも安定した治績を残す。そして何より、朝廷と幕府にコネをつけられる。ほかのことはともかく、織田家中でこれができるのは光秀だけです。

怒濤の勢いで出世している秀吉の、もっと上をいっているのが、この光秀です。

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