信長が本当に頼ったのは秀吉ではなく光秀だった――与えられた城の「京都からの距離」でわかる信長の"真の評価"

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光秀は奥さんが死ぬまで側室を持ちませんでした。あの時代にあって、一夫一妻制を体現していました。

なんでも、喰うや喰わずの時代に、旦那に恥をかかせまいと自分の髪を売って宴会の費用を捻出してくれた奥さんに感動して、生涯、側室を持つまいと決心して実行したとか。決心通りに側室を持たなかったのに、子沢山でした。

一方、秀吉は数多(あまた)の側室を抱えながら、子供に恵まれず、やっと生まれた秀頼その人が豊臣家滅亡の原因になるのですから、皮肉です。

光秀は調略での裏切り、残虐さにおいては、織田家中で名うての武将でした。公私をこれほど使い分けられる人格の持ち主はなかなかいません。

ルイス・フロイスの『日本史』はまったく信用できない書物ですが、ときどき正しいから史料批判の訓練にうってつけ(笑)。

光秀を「その才略、深慮、狡猾(こうかつ)さにより、信長の寵愛(ちょうあい)を受けることとなり」とし、さらに「彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的であったが、己れを偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」と評しているのは、信じてもいいでしょう(ルイス・フロイス、松田毅一、川崎桃太訳『安土城と本能寺の変 織田信長篇Ⅲ』完訳フロイス日本史③ 中公文庫 2000年 143頁)。

ほかの一次史料でも、そういう話が出てきますし。

「善人顔」をした光秀の恐ろしさ

本当に優秀な人間は、光秀の肖像画のような顔をしていてもおかしくありません。善人顔をした悪人ほど怖い人はありません。悪人顔した悪人はただのハッタリで、まったく怖くないですから。

ルイス・フロイス『日本史』目次(パブリック・ドメイン)
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