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キャリア・教育 #秀吉再考

信長が本当に頼ったのは秀吉ではなく光秀だった――与えられた城の「京都からの距離」でわかる信長の"真の評価"

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  • 倉山 満 皇室史学者、憲政史家、(一社)救国シンクタンク理事長兼所長
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秀吉もオールマイティーに近いのですが、朝廷や幕府とのコネはつけられません。信長の目からすると、この方面では「将軍義昭への嫌がらせとして護送役」くらいしか、秀吉の使い道はありません。

人は歴史を見るときに、後世の結果で逆算しがちですが、天正元(1573)年の時点では総合的に見て、光秀のほうが秀吉よりも格上です。少なくとも、信長の扱いは違います。

秀吉が近江に横山城をもらったのに対し、光秀は比叡山延暦寺の焼き討ちの論功行賞として近江志賀郡が与えられ、坂本城を築きます。

坂本は比叡山延暦寺に近く、京都にも近いのです。横山城よりも、のちに秀吉が拠点とする今浜よりも、はるかに京都に近いのです。近くの難しいところを任されている光秀と、難しいには難しくても京都から遠くに行かされている秀吉と、どちらが重んじられているのかは歴然としています。

明智光秀像(本徳寺蔵)(パブリック・ドメイン)

光秀と秀吉はどちらが悪人か?

ところで、明智光秀の有名な肖像には髭がありません。つるっとした肌や細面(ほそおもて)から文弱なイメージがついています。

ところが見た目に反して、光秀ぐらい二面性がある人はいません。最良の家庭人であると同時に、残忍で無慈悲な武将です。

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【光秀の糟糠の妻への愛】

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