信長が本当に頼ったのは秀吉ではなく光秀だった――与えられた城の「京都からの距離」でわかる信長の"真の評価"
秀吉は愛嬌よく相手に見下させて警戒心を解き、説得するタイプ。光秀は上品で優しそうな顔立ちで相手に近づく。ただし2人とも、腹の底では敵を調略しようと虎視眈々……。
と思って読むと、無味乾燥な一次史料も世界が広がって読めます。
秀吉が光秀に勝てるものは?
2人ともなんでもこなせるオールラウンダーである点は共通しつつも、鉄砲の使い手でもある光秀のほうがおそらく個人的な武芸では格上でしょうし、また、何と言っても、光秀は朝廷や幕府とコネがつけられ、そして学問と武芸もある点が、秀吉とは大きく異なります。
秀吉が光秀に勝てるのは、はっきり言って、“女たらし”の才能ぐらいです。“女たらし”が武器だとなれば、秀吉と光秀は比較になりません。
秀吉のようなタイプはモテないわけがなく、女たらしのほうが真面目な優等生に勝ってしまうのは、世の中には往々にしてある話です。
ちなみに政治の世界では「女を口説けない奴に政治はできない」と言われたものですが、最近はコンプライアンスがうるさくて、表立っては言わないようです。
とにもかくにも、2度にわたる信長包囲網を脱し、織田家は一息つきました。秀吉もひとかどの武将として世に出ました。
秀吉は小谷城を落としたあと、基本的に近江を拠点にしています。相変わらず信長特有のあちこちへの使い回しで、三重県や福井県へと走り回る日々です。
天正2(1574)年には、秀吉は拠点として江の今浜に城を築いて、地名を「長浜」と改めました。
また、この年、「羽柴筑前守秀吉」と名乗ります。
「筑前守」は武家官位です。このとき秀吉と同様に「○○守」と官位をもらった人と、丹羽長秀が「惟住(これずみ)」の苗字をもらったように苗字をもらう人がいました。この両方をもらったのは光秀だけで、「惟任(これとう)日向守(ひゅうがのかみ)光秀」となります。
ここからも、やはり信長が一番信頼していたのは光秀であり、秀吉はどうしても二番手だとわかります。
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