気になる作者の名は「東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく)」。謎の多い人物で、正体については諸説ある。
正体不明の「写楽」が10カ月で引退の謎
写楽についてまず不思議なのが、あまりに突然現れたということ。新人とは思えない筆致から、実は有名絵師の仮の姿だったのではないか、とも言われている。その正体について、喜多川歌麿、葛飾北斎、司馬江漢、山東京伝、十返舎一九……など、名のある絵師は「写楽なのでは?」と疑われることとなった。
ほかにも、歌舞伎役者としては無名だった中村此蔵が描かれていることから「中村此蔵が写楽だった」とする説や、ほかの版元からの出版がない不自然さから蔦重自身が「写楽」だとする説まで唱えられている。
もっとも有力なのが「斎藤十郎兵衛」説だ。斎藤月岑の『増補浮世絵類考』では「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」とあるように、阿波藩お抱えの能役者・斎藤十郎兵衛こそが写楽の正体だ……というのが、信憑性の高い説とされている。
いきなり現れた写楽は、寛政7(1795)年1月に12点の作品を刊行したのを最後に、忽然とその姿を消している。活動期間にしてわずか10カ月で、約140点の作品を残した写楽。その正体が斎藤十郎兵衛だとしても、これだけの話題を振りまきながら、いきなり絵師を廃業した理由は謎のままである。
当時の写楽について、大田南畝は『浮世絵類考』で次のように書いている。
「これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとて、あらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず、一両年にして止む」


















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