〈歴史×医療〉本執筆の"歴女医" 《浪人=しんどい》の常識覆す「楽しい思い出しかない」医学部受験の浪人時代

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馬渕さんは、広島県広島市で麻酔科医の父親と、助産師の母親のもとに生まれました。小さい頃の馬渕さんは、「運動が苦手で、昼寝が大好きでずっと寝ている子だった」そうです。小学校に入った頃は成績が真ん中くらいだったそうですが、2年生になってから一気に伸びたと語ります。

「2歳から小学校に入るまで、父親の仕事のため離島に住んでいました。島には保育所しかなく、習い事の教室はなし。本屋もありませんでした。本を読むのは好きだったのですが、のんびりしていたため、ひらがなが書けず、小学校入学前に名前を書く特訓をする羽目になりました。2年生になって、広島の学校に転校してからは急に勉強ができるようになりました」

そのまま地元の公立中学校に入ってからも成績はよかった馬渕さん。だいたい学年200人中5番くらいで、いい時は1番を取ることもありました。

「中学校の頃、理科の先生が初恋で、先生に質問したい一心でめちゃくちゃ勉強してしました。調子に乗って高校の範囲もやりました。その先生は数学の質問も答えてくれたので、質問に行くためだけに数学をやっていましたね。これ、後から受験にかなりプラスでした」

ヤケクソで医学部受験

高校受験では第1志望であった広島県立安古市高等学校に進学した馬渕さん。

当時の母校は、東大・京大は2~3年に1人、医学部は『浪人して』1クラスに1人くらいで出ていたそうですが、入学した時の馬渕さんは1学年450人中20~30番と、最上位層には少し足りない順位でした。

『ストリートファイターII』などのゲームにハマったこともあってか、3年生になってからは60~70番と順位を落とした馬渕さん。中学の理科の先生が好きだったこともあり、広島大学の理学部・工学部を狙っていたそうです。

ここで転機となったのが、センター試験の大失敗。7割を少し超える程度だったこともあって方針を切り替えたようです。

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