「地方の国公立の工学部であれば、2次試験を頑張れば受かるかなという感じの点数でした。ですが、逆に『工学部を受けて落ちてしまうと恥ずかしい』という妙なプライドがあり、『どうせなら医学部を受けて玉砕しよう』と思いたち、宮崎医科大学の前期・後期を受験しました」
「センターの結果が絶望だったからヤケクソで医学部を受けた」と語る馬渕さん。小論文が得意だったため、もしかしたら奇跡が起こって合格するかもしれないと思っていたそうですが、結局、前後期ともに不合格。ちなみに後期試験の受験後には、飛行機をキャンセルし3日程度、宮崎観光をして帰ったそうです。
浪人時代「受験型の勉強」で偏差値35から60超に
現役の受験での全落ちが確定した馬渕さんに、浪人しようと思った理由を聞いたところ「行くところがないから浪人するしかないよねという感じだった」と答えてくれました。
「父は医師でしたが、医師にさせようという空気感はなくて、母親や親戚には『多浪しそうだし、女の子が無理して医師になることない』という意見が多めでした。父親は浪人は何年しても全然構わないという感じでしたが、『国公立至上主義』な価値観だったので、浪人して国公立の医学部を目指しました」
浪人を決めた馬渕さんは、高校3年生から通い始めた河合塾で浪人する決意をします。
「当時、私が通っていた河合塾では成績でクラスが割り振られ、私は7Nクラスに入りました。7Sクラスが医学部に行けそうな学力を持つ浪人生、7Nは医学部以外の国公立がボリュームゾーンでした。予備校に入って最初の方はあまり勉強していなかったのですが、現役の時、国公立医学部はE判定のみだったのに、急にB〜C判定が取れるようになりました」
急成長には、高校の仕組みが大きく影響していたそうです。
「母校の指導が受験特化型ではなく教養を身につけることを主体にしていたのが大きいと思います。理系と文系に分かれるのが高3からで遅めであったことや、現役で受験したセンター試験の時に試験の出題範囲が終わっていない科目もありました。自分で勉強しなかったのが悪いんですけどね。
母校は大好きですよ。だから、予備校に入って、試験範囲を一通り終えた状態は、実力は変わっていないのに見違えるように成績が上がりました。一番覚えているのは、物理の偏差値が、高校3年生の35から、60超になったことです。浪人のアドバンテージと出題範囲の勉強が終わっただけなのに、すごい天才になった気分になりましたよ(笑)」


















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