〈歴史×医療〉本執筆の"歴女医" 《浪人=しんどい》の常識覆す「楽しい思い出しかない」医学部受験の浪人時代

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夏や秋の模試でもB〜C判定から変わることなく、全教科のトータルで偏差値60台前半の成績を試験まで維持し続けたそうです。

全落ちで2浪覚悟も、電話が…

医学部を目指していたものの、2浪はしたくなかったこともあり、センター試験で失敗したら違う進路を選択しようと思っていた馬渕さん。

「親は国公立の大学だったらどこでも構わない感じでした。私も『入れるところに入ろう』という感じだったので、どこの大学に行きたいというのはありませんでした。もし学力が伸びたら地元の広島大学の医学部に行きたいという感じでしたが、高嶺の花。現実的な第1志望としては、愛媛大学の医学部でした。父の生まれが愛媛で親戚も多く、広島から近いのが理由です」

この年の彼女のセンター試験は85%程度で、地方国公立の医学部であればチャンスがある成績でした。しかし、広島大学の医学部や愛媛大学医学部の受験は諦めます。広島大学には点数が足りず、愛媛大学は傾斜配点で不利になったからだそうです。

「河合塾のセンターリサーチで、大分大学や島根大学あたりでC判定が出ていました。受験校は悩んだのですが、南木佳士さんの小説『医学生』を読んでいたこともあり、同じくC判定だった秋田大学の医学部にしました。記念受験になるかもしれないので、せっかくだから小説の舞台になった秋田大学を見に行ってみようという感じで選択しました」

後期のリサーチはE判定だったものの、慶應義塾大学に行った先輩に「前期と後期で同じところを出した方がいい」とのアドバイスを受けたこともあり、秋田大学を前期と後期で出願した馬渕さん。残念ながら、どちらもいい報せは来ませんでした。

滑り止めで受験した久留米大学・帝京大学の医学部も不合格。2浪を覚悟していたら、3月後半に思わぬ形で吉報が届きました。

「河合塾に2浪目のお金を振り込んで、家で『ドラゴンクエストⅢ』をやっていました。秋田大学のパンフレットを捨てずにいたら母に片付けろと言われたため『補欠あるかも』と反論したところ『夢見すぎ』とあきれられたんですよ」

すると、電話がかかってきて、馬渕さんが受話器をとると、聞こえてきたのは秋田弁でした。

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