かつて"絶滅危惧種"と呼ばれた藤原喜明が明かす…第一次UWFの旗揚げで花開いた【関節技】の原点
昭和の新日本道場での練習において、関節技のスパーリングは必修だったが、黎明期のメンバーでその技術を長きにわたり磨き続けたレスラーは、実のところ思いのほか少ないという。
関節技を追求しつづける「絶滅危惧種」だった
77年に新日本に入門した前田は、70年代後半の時点ですでに、道場で寝技のスパーリングを連日行っていたのは藤原だけだったと、次のように証言している。
「俺が若手の頃、新日本で関節技のスパーリングをやってるのは、藤原さんと俺だけでしたよ。他の選手はもうほとんどやってなかった。
俺が入る前は、佐山さんが藤原さんとずっとスパーリングをやってたらしいけど、俺が入った頃の佐山さんは猪木さんの付き人として付きっきりだったんで、もう藤原さんと練習する時間はなかったし、その後は海外遠征(メキシコ修行)に行ってしまいましたからね。
その後、いろんな若手がスパーリングをやるようになったのは、俺が後輩にやらせたんです。
巡業中の試合前、俺と藤原さんがリング上でスパーリングしていると坂口(征二)さんに『邪魔だから、リングから降りろ』ってよく言われたんで、髙田とかいろんなヤツを引っ張って、数の論理で排除させないようにしただけ。
だから、関節技のスパーリングっていうのは、UWFの道場になってから全員やるのが当たり前になったけど、もし藤原さんがいなかったら、新日本の道場でその練習はとっくの昔になくなってたと思いますよ」
そして藤原自身もこう証言している。
「新日本道場の練習に寝技のスパーリングはあったけど、みんながみんなやるわけじゃない。『そんな馬鹿なことやってどうするんだ?』っていうほうが多かったからな。
若手の頃はやっていても、途中からはやらなくなっちゃうんだ。そんななかでやっていたのは、俺と佐山や前田、髙田といった、のちにUWFに行く連中。だから俺らがいなかったら、総合(格闘技)だとかにも何も伝わってなかったよ」


















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