かつて"絶滅危惧種"と呼ばれた藤原喜明が明かす…第一次UWFの旗揚げで花開いた【関節技】の原点

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第一次UWFが旗揚げし、「シューティング・プロレス」として関節技の技術がファンの間で本格的に注目され始めたのは84年から。藤原のように地味な関節技を追求するレスラーは、70年代後半の時点では"絶滅危惧種"だったのである。

入門から2カ月で訪れた「運命の出会い」

そんな新日本道場で藤原が寝技に開眼するきっかけは、やはりコーチとして来日したカール・ゴッチの存在だった。

「新日本に入門して2カ月が経った頃、ちょうどゴッチさんが来日して、道場でコーチしてくれたんだ。その時、関節技をいろいろと教えてくれて、『あっ、これホンモノだわ』と感じた。そこから『関節技って面白れえな』と思うようになったんだ。

関節技っていうのは最小限の力で最大限の効果をあげるという力学だからね。俺は工業高校機械科卒業で、応用力学の成績は"5"だったから、ああいうのは得意なんだよ」

ここから藤原は、関節技にどんどんのめり込んでいく。

「俺が誰よりも関節技にハマっていったのは、自分の性格が関係していたと思う。俺は何か1つのことにハマると、そればっかりに熱中するんだ。本来は面倒くさがり屋なんだけど、自分が興味を持ったことには徹夜でもやるからね。

たとえば、焼き物なんかをやっていると、気がついたら何時間も経っていたなんていうのはしょっちゅうだし、陶器のゴジラをつくった時なんか、計算してみたら23時間もぶっ通しでやっていたからな。それだけ続けていても苦痛でもなんでもない。

自分が好きなことをやっている時は夜中だろうがパッと目が覚めて、『そうだ、これをやってみよう』って、窯焚きを始めたりな。好きになって集中すると、俺はしつこいんだよ」

多趣味で知られる藤原は、焼き物以外にもイラスト、盆栽、浪曲など、すべて玄人はだしの腕前だが、それは好きなものを突き詰めていく性格が関係していた。そしてプロレスにおいて藤原が最も好きになりハマったのが、ゴッチから学んだ関節技だったということだろう。

だからこそ、新日本道場でゴッチに学んだからといって誰もが関節技にハマっていったわけではないのだ。

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