かつて"絶滅危惧種"と呼ばれた藤原喜明が明かす…第一次UWFの旗揚げで花開いた【関節技】の原点
いわば、チャンピオンベルトとは無縁の道場のチャンピオン。佐山聡、前田日明、髙田延彦、船木誠勝、鈴木みのるら、のちの格闘技界にも多大な影響を与えた面々は、そんな藤原とのスパーリングを繰り返すことで、プロレスラーとしての自信と誇りを身につけ、メインイベンターへと成長していった。
「ストロングスタイル」を標榜する新日本の根幹をなしていたのが、藤原喜明という存在だったのだ。
総帥・アントニオ猪木からの「絶大な信頼」
藤原は自らのプロレスラーとしての矜持をこう語る。
「プロレスラーが強さを身につけなかったら、ただのスタントマンじゃねえか。プライドなんか持てないんだよ。佐山や前田もそうだと思うけど、それがなかったらとっくにやめていると思うよ。
とくに昔はプロレスが色眼鏡で見られて、世間からくだらねえことをいろいろ言われる機会も多かったなかで、『そうはいくか!』『俺はこれだけのものを持ってるんだ』という思いがあるからこそ、プロレスラーをやっていける。猪木さんだってそうだったと思うよ」
そういった姿勢でプロレスに取り組んでいた藤原は、新日本の総帥・アントニオ猪木からの信頼も絶大だった。
猪木の異種格闘技戦や、海外での未知の相手との闘いの際には、その傍らに常にスパーリングパートナー兼ボディーガードとして藤原の姿があった。そのため藤原は、たびたび「猪木の用心棒」「猪木の影武者」とまで呼ばれた。
新日本の元レフェリーであるミスター高橋いわく、猪木は生前「パーティーには藤波を、危険な場所には藤原を連れていく」と語っていたとされるが、それを伝え聞いた藤原は「俺にとって一番の名誉だ」と語っている。
「プロレスとは闘いである」という猪木イズムに忠実に生きた藤原。しかし、昭和の新日本において藤原は、"猪木派"であっても決して主流派ではなく、選手間の秩序からは距離を置いたアウトローだった。周囲に迎合せず、取り憑かれたように寝技の練習に打ち込む藤原を「変わりもん」と呼ぶ者もいた。


















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