というのも、近世の学問は全て朱子学の学問体系から枝分かれしており、朱子学の用意したパラダイムに沿って発達している。日本古典の研究である国学ですら、古文辞学の学問方法を利用しており、その古文辞学もまた朱子学のパラダイムの中にいる。
つまり、受容するにせよ批判するにせよ、まずは朱子学の広汎かつ精緻な学問体系を学ばなければ、見当違いの思いつきを議論することになるのであって、いわば朱子学は必修の基礎学問だった。
当時はさまざまな学派が入り乱れ、玉石混淆の学者がてんでんばらばらに議論していたことから、あらためて基礎研究、基礎教育の基盤を整えたのが昌平坂学問所であった。ゆえに各藩校、私塾では何を教えても自由だったし、定信の治める白河藩校ですら全学派の学習が行われた。
また昌平坂学問所そのものがあらゆる資料を蒐集しており、古代から近世までに存在したテキストを校合して、中国ですら失われた漢籍を復刻した他、定信の命により西洋の文献蒐集と学問解析にも着手していた。
「藩校260、寺子屋1万6000」教育爆発の衝撃
この結果、定信の盟友にして昌平坂学問所を指揮した林述斎(1768~1841)の主導により、全国的に「教育爆発」という現象が発生し、日本には藩校260、私塾1500、寺子屋(手習所)1万6000が生まれる。
庶民の識字率上昇と学力向上は趣味の領域に突入し、江戸時代の庶民は「学問は最高の道楽」と言うまでになった。
この時、本居宣長を口説き落とし、その著作で一儲けしたのは誰あろう蔦屋重三郎である。蔦屋もまたこの流れにいち早く便乗していたことは、文化の主流が大きく動いたことの象徴である。
各学派のバリエーションと研究水準は頂点に達し、定信を尊崇した二宮尊徳(1787~1856)が農村教育のシステム開発に尽力したこともあって、日本人は自分で学び、自分で考えて生活や社会をつくる意識を持つようになった。これが日本の近代化に果たした役割は極めて大きい。
このように、定信が目指したのは日本人全てが自律した社会であり、下から日本を支えていく文化であった。こうした視座で見なければ、思想や文化の歴史的な流れは見えてこないのである。
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