当時は情報の出所が明らかではなく、また証拠もない荒唐無稽な風聞が、瓦版などを通じて流通していた。また、エロ、グロ、ナンセンスは江戸の庶民文化の特徴であるが、現代からすれば信じられない馬鹿げた話がまことしやかに広まって、大騒ぎとなることも日常茶飯事であった。
この流れの中で、いわゆる「咄本」「洒落本」「談義本」などを中心に、天皇、将軍、大名、武士、神職、僧侶から果ては神仏にいたるまで、あらゆる権威が卑猥な言葉で茶化され、倫理道徳や法令規範が徹底的に貶められた。
その反面、庶民の間でおこる痴情のもつれや、ヤクザ者の反社会的行動が芸術的に美化される。
庶民社会が発達するにつれて起こるこうした文化現象は、17世紀の中国や、18世紀のフランスでも見られ、既存の権威が失墜すると共に、庶民が政治意識を高める母胎となった。
しかし良いことばかりではない。素朴な感性で生きる人間は「野暮」と嘲笑され、無理してでもこの中に入り、気の利いた言葉で社会を罵倒し、良識を嘲笑して猥談をひねり出さなければ生きられない。
蔦重と山東京伝が挑んだ「政治ショー」の結末
このことを問題視した定信は①~⑥を通達することで、要するに著者と出版社を明らかにして匿名記事を禁止し、ニュースソースやエビデンスを明記するといった、業界としての基本ルールをつくれと言ったのである。
蔦屋はこれに反発し、届け出なしで山東京伝(1761~1816)に洒落本(遊郭の恋愛物)を書かせた。かくして彼らは処罰を受け、手鎖五十日の謹慎処分と資産の半分没収を言い渡される。
これは勃興する庶民文化が政治意識を持ち始めた好例であるが、こちらは単なる法令違反として粛々と処罰が行われ、蔦屋の期待した「政治権力vs.出版業者」というド派手な政治ショーは起こらなかった。
そうすると、定信は庶民文化を弾圧しながら、既存の権威を維持しようとしたのであろうか。実はそんなに単純な話でもない。
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