「べらぼう」恋川春町の「切腹」は本当に史実か 定信の「出版統制令」は文化弾圧だったか 「エロ・グロ・ナンセンス」規制の先に見据えたものとは

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ところで、「近世職人尽絵詞」は絵を鍬形蕙斎(1764~1824)、詞を四方赤良(1749~1823)、朋誠堂喜三二(1735~1813)、山東京伝が担当している。

彼らは出版統制令を巡って定信と激しく対立したにもかかわらず、定信に協力して作品づくりをしていることは奇異に映る。

国民生活を何より重んじた定信は、娯楽が国民生活に与える精神的な豊かさや、そこから生まれるイノベーションを十分に評価していた。しかし、それが商品経済の発達によって、広告宣伝に煽られて官能を刺激され、消費するだけの形態になることを警戒していた。

したがって彼は、人気作家たちに上記作品群を作成させ、庶民の生活や仕事の中に込められている「物の徳」を表現させることによって、生活をじっくりと観察し、しみじみと味わいながら、また新たな生活を生み出すような文化をつくろうとしていた。

人気作家たちもこの考えに賛同し、一転して定信に協力することになる。ここにおいて定信と庶民文化は融合し、堅実な経済生活と厳しい批評眼をもった、中間層を主体とする「化政文化」を生んでいくこととなるのである。

そこでは勤勉と貯蓄によって安定した生活を営み、細かい仕事が施された着物や調度品を用い、たまの旅行で気晴らしと見聞を広める人々の姿があった。

弾圧者ではなく「教育者」

定信が「倹約令」と「囲米」「七分積金」によって中小事業者を保護育成して中間層を分厚くする一方、庶民のマネーリテラシーを育てようとしたことは以前書いた通りである。

それが国民の経済的自立という「形」をつくるものなら、出版統制令と文化事業は生活や仕事を通じた技術と審美眼を養い、国民の精神的自律という「心」をつくるものであった。

つまり定信は、庶民文化の発達と共に庶民の政治意識が高まることを問題視したのではなく、むしろ自分の目で見、自分の頭で考える自律した国民を育てる方向で、庶民文化を発展させようとしたのである。

これの傍証として、昌平坂学問所の設立が挙げられる。こちらは国立大学ともいうべきものであり、入学希望者は幕臣の他、後には浪人や庶民にも開放されるようになった。そこでは朱子学のみを教えることとなっているが、これが近代になると「学問統制」と批判されるようになる。だが、これは全くの見当違いである。

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