「悪党にても人」という宣以の考えと、それを採用した定信によって、近代的な刑務所のさきがけとなる更生施設を実現させることになった。
意次が作った繁華街を潰した土で人足寄場を作った
そのように無宿人対策としての宣以の建議を採用した定信だったが、立地については、最初の案を退けている。
宣以は当初、深川の鶴歩町を立地として定信に進言していた。前述したように、田沼意次の頃に深川の茂森町に作った養育所では逃亡が多かったという。そのため、川沿いで逃げにくく、かつ、費用がかからなさそうな場所を選んだのである。鶴歩町ならば、2万坪という広さを確保できそうな点も魅力的だったのだろう。
しかし、その案は採用されず、隅田川河口の石川島と佃島との間の鉄砲洲向島に人足寄場を設置することとなった。敷地は約1万6000坪。その埋め立てにあたって、定信は中洲を取り壊して川ざらいした土を活用したという。
中洲といえば、安永元(1772)年に田沼意次が隅田川を埋め立て「中洲新地(なかすしんち)」という新たな繁華街を4年かけて作り上げた場所だ。定信は老中になると、中洲新地の店をすべて取り潰してしまったばかりか、わざわざ土をさらって、元の川へと戻した。
「盛り場をつぶした土で人足寄場をつくるのは、いかにも松平定信らしい」
藤田覚は『松平定信 政治改革に挑んだ老中』(中公新書)でそう書いているが、同感だ。意次のもとでは頓挫している無宿人対策だけに「自分らしさ」をより意識したのではないだろうか。
【参考文献】
松平定信著、松平定光著『宇下人言・修行録』(岩波文庫)
藤田覚著『松平定信 政治改革に挑んだ老中』(中公新書)
高澤憲治著『松平定信』(吉川弘文館)
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