長谷川宣以が松平定信に提案「人足寄場」スゴイ理由 悪ガキだった平蔵だからこその寄り添いとは

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しかし、この養育所は天明6(1786)年に廃止。6年間で終わりを迎えている。逃亡者が多かったことが、閉鎖した理由の一つとされている。

悪ガキだった宣以だからこその寄り添い

この問題を解決させるべく「志ある者はおらぬか」と定信が尋ねたところ、宣以が「やってみましょう」と手を上げた……と定信は記している。

寛政2(1790)年に「無宿人」の更生施設として「人足寄場」が建設された。この人足寄場では、刑を終えた無宿に対し、社会復帰に向けた職業訓練が行われた。

手に職があれば、建物を建てる大工、障子・ガラス戸・木製扉などを扱う建具職人、板材を組み合わせる指物師、木製の物に漆を塗る塗師などの仕事をさせた。

もし、手に職がない場合は、精米作業を行う米つき、油の原料となる菜種を搾る油搾り、生活用具や履物などを作るわら細工、紙を作る紙すきなどの仕事を与えた。できた製品は町の商人に鑑札を与えて売りさばくことを許したという。

取り組みとして興味深いのは、ただ労働をさせて社会との接点を作るだけではなく、少しでも改心するように、と休業日には心学者による講話を聴かせたことである。宣以が「僧の説教を聞かせるのがよいのではないか」と定信に建議したところ、それが心学者というかたちで実現することとなった。

宣以は若い頃、吉原や深川の岡場所に入り浸っては、父が蓄財した金銀を使い果たした。そんな荒れた時期があっただけに、道を踏み外した人の気持ちがよく分かったのかもしれない。

人足寄場では、病人のための病人部屋や、女性のための収容室「女置場」も作られている。女置場については途中で女性の収容者がいなくなったため、廃れることになるが、幕末には復活して女性に適した手作業が与えられたという。

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