
イメージ(写真:風を感じて / PIXT)
NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあたっている。もはや権勢を誇った元老中の田沼意次は亡くなり、いよいよ松平定信が老中首座として「寛政の改革」に乗り出すことになった。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第39回は、松平定信が11代将軍の家斉に疎まれた背景について解説する。
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策略家の一橋治済も甘くみていた「定信のマジメさ」
老中になってすぐに老中首座に抜擢された松平定信。大河ドラマ「べらぼう」では、マジメすぎるがゆえに周囲から孤立していく様子が描かれている。
なにしろ、松平定信は8代将軍の徳川吉宗の孫にあたり、幼少期から聡明で将軍候補とも目された人物だ。田沼意次の陰謀により(将軍への意見書の記述から少なくとも本人はそう考えている)、白河藩に養子に出されたことで将軍にこそなれなかったが、こうして老中首座として実権を握る日がついに訪れたのだ。
「意次憎し」という感情は決して、個人的な恨みだけではないのだ……自分にそう言い聞かせたかったこともあるのだろう。田沼政治がもたらした「金儲け主義」こそが世を乱したと、民には倹約を訴えて、とりわけ武士には武術と学問を磨けと、呼びかけることになった。「文武奨励策」と呼ばれるもので、定信が最もこだわった改革の一つだ。
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