ひたすら改革に邁進する定信にも狂気を感じるが、家斉の性豪ぶりには舌を巻くばかりだ。家斉があちこちで子どもを作ったことで、幕府の財政難はより深刻なものになった。どこまでもマジメな定信は、将軍の子作りを制限しようとさえしたという。
大奥にも改革の手を緩めなかった
あらゆる可能性を想定し、多方面に警戒を募らせた定信だが、入閣と同時に自ら奥勤めを兼ねた点にも着目したい。定信は大奥の女中たちが政治に介入することも警戒した。
自身が大奥の管理にかかわっただけでは不安は解消されなかったようで、加納久周、松平信明、本多忠籌といった信頼できる側近たちを、老中や老中格に昇格させてからも、奥務めを兼ねさせている。
忠信は老中首座となって4カ月後、天明7(1787)年10月、大奥の男性職員である「広敷用人(ひろしきようにん)」を更迭。同時に、自身の老中就任を後押しした大崎らに倹約掛を命じて、引き締めにかかった。
大奥が将軍に影響力を持つことのないように監視しながら、しっかりと倹約させることで、将軍の身の回りから緊縮ムードを徹底させようとした。定信は大奥の経費を3分の1に減らすことに成功した。
定信自身も、江戸城に初登城した際には、木綿と麻の質素な礼服を身につけている。「隗より始めよ」と将軍やその周辺から倹約を世に広めていこうとするのは、まっとうな考え方だといえよう。
だが、大奥からの反感は大きかったようだ。いつか大奥の女中たちから毒殺されるのではないか、と周囲が心配するほどだったという。服部半蔵らが定信の側近たちに「殿中では湯を飲まないように」と毒殺を心配すると、定信はこう答えた。
「湯には注意しているが、将軍から餅をいただくことがある。毒にあたるかどうかは、運次第だ」
結局は、将軍の家斉によって老中を罷免された定信。そのため、寛政の改革は「わずか6年で終わった」と表現されることがある。
だが、就任当初からトップギアで、各方面との軋轢ももろともせず改革を断行したことを思えば、濃密な6年間だったのではないだろうか。
【参考文献】
松平定信著、松平定光著『宇下人言・修行録』(岩波文庫)
藤田覚著『松平定信 政治改革に挑んだ老中』(中公新書)
高澤憲治著『松平定信』(吉川弘文館)
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