老中「松平定信」と将軍「徳川家斉」の狂気対決の行方 大奥も敵に回した松平定信、湯を飲むのも警戒のワケ

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そんな定信を、将軍・家斉の父である一橋治済は、どう見ていたか。大河ドラマ「べらぼう」ほどの陰謀を張り巡らせたかどうかはともかく、嫡男の豊千代を将軍に据えさせるくらいには策略に長けた治済のことだ。定信を老中首座に据えておけば、田沼派を一掃し、庶民を引き締めて、幕府の財政を立て直そうと必死になるはず……と、そこまでは狙い通りだったのだろう。

ただ、治済にとって誤算だったのは、定信があまりに働き過ぎたことだ。光格天皇相手にも自らのスタンスを崩さず(過去記事「天皇の意向を退ける尊号事件」参照)、治済が大御所として江戸城に入るのにも難色を示す。

そのうえ、将軍となった我が子をも「理想のリーダーであれ」と教育しようとしている。定信の厳格さは、自分たち以外にだけ発揮してほしかった……というのが、治済や将軍・家斉の本音だったに違いない。

老中の定信と将軍の家斉による「狂気対決」

とりわけ定信が危惧したのが、将軍・家斉を取り巻く女性たちである。まず警戒したのが、婚約者である茂姫だ。

家斉は4歳にして、薩摩藩藩主の島津重豪の娘、茂姫との縁談が決まっていた。家斉と茂姫は同じ年であった。10代将軍の家治には嫡男の家基がいたことから、薩摩側も茂姫が嫁いだ先が将軍家になる可能性は低いと考えていたことだろう。

しかし、家基が急死したことで、家斉が家治の養子になるやいなや、茂姫は一橋屋敷に迎え入れられることになる。その後、幕府が警護するなか、西丸脇の東御殿に移り、さらに大奥へ入っている。そこで、将軍の御台所としての教育が施されることとなった。

定信は、家斉への意見書に「茂姫に溺れては危険です」という趣旨の警告を発している。島津家が茂姫を通して、幕政に関与することを恐れたのだろう。のちに薩摩藩が篤姫を13代将軍の家定の御台所として送り込み、次期将軍に一橋慶喜を据えさせようとしたことを思えば、定信の警戒はしごくまっとうなものだったといえよう。

もっともこのときの定信の心配は、全くの杞憂に終わる。家斉は15歳で将軍の座につくと、その2年後に茂姫と婚儀をあげたが、その前に側室、お万の方を妊娠させていた。その後も家斉は茂姫に溺れるどころか、40人以上の側室との間に 50人以上の子息を残すことになる。

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