パワハラに怯えて指導ができない=「物言わぬ上司」になる人とならない人の明確な差
考えてみてください。上司に言われた通りにやって出した成果と、自分で考え抜き、試行錯誤の末に出した成果とでは、どちらが本人の自信になるでしょうか。言うまでもありませんよね。言われた通りの成功体験は、本当の意味での自信にはならないのではないかと、私は思います。
「やらされている」うちは、まだ本物ではないのです。真の指導とは、テクニックを教え込むこと以上に、相手の内側から湧き出る「やりたい」というエネルギー、すなわち内発的動機付けをいかに引き出すかにかかっているのです 。
両者を分ける境界線 ― 愛があるから「事実」を伝える
では、「無責任なパワハラ」と「主体性を引き出す指導」、この両者を分ける決定的な境界線はどこにあるのでしょうか。
それが「相手に対する想い」です。もっと言えば、「愛」があるかどうか。これに尽きるのです。
ここで、ひとつ分かりやすい例え話をさせてください。もし、私の顔にご飯粒がついていたら、あなたはどうしますか? きっと、「社長、ここについてますよ」と、そっと教えてくれますよね。見て見ぬふりをして、心の中で笑っているなんてことは、まずないはずです。
なぜ、あなたは私に教えてくれるのか。それは、恥をかかせたくないという、私に対する「思いやり」や「愛」があるからです。
指導も、これと全く同じです。部下に改善すべき点があった時、それを伝えるのは、相手の成長を心から願っているからです。愛があるから、教えるんです。逆に、何も言わないというのは、一見優しさのようでいて、実はその人の成長に関心がない、つまり「愛がない」行為に等しいのかもしれません。
大切なのは、何を伝えるかではなく、どう伝えるか。 パワハラは、自分の感情を相手にぶつけます。「なんで出来ないんだ!」と責めたり、文句を言ったりする。しかし、愛のある指導は、決して感情的になりません。ただ、そこにある「事実」を、相手に気づかせてあげるだけです。
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