「不祥事を起こした俳優を使うなんてありえない」フジ『102回目のプロポーズ』出演の唐田えりかと伊藤健太郎を"批判する人たち"の危うさ
他人を誹謗中傷しておきながら、それを指摘されると「みんながやっていることだから」「言われるほうが悪い」などと責任を逃れようとする言葉が決まり文句。
相手から名誉毀損罪や侮辱罪などで訴えられない限り、自分以外に責任を求めることで誹謗中傷を正当化しようとする傾向がみられます。
その際、特徴的なのが「言葉から“主語の私”を外している」こと。
たとえば、「私が言っている」ではなく「みんなが言っている」こととして誹謗中傷を正当化する。あるいは、「私がこう思う」ではなく「普通はこう思う」という一般論のようにすり替える。
どちらも“主語の私”を都合よく外すことで責任から逃れようとしています。
このような人は誹謗中傷に限らず、都合の悪いことがあると“主語の私”を外して責任から逃れようとしがちですが、逆に少しでもよいことをした際は「私がやった」などと“主語の私”を入れてアピールするもの。
意識しなくても二枚舌のような対応が習慣づいていて、「できるだけリスクを負わず、いいところ取りしたい」という姿勢がみられます。
今回の唐田さんと伊藤さんに関しても、「私は許せないから」ではなく「みんなが許せないから」という姿勢なので、第三者であるにもかかわらず強い言葉をぶつけられるのでしょう。
しかし、名誉毀損罪や侮辱罪などで訴えられる際は“主語の私”を外すという他責思考は通用せず、発言・発信者が責任を問われるだけに、リスク回避にはつながりません。

芸能人はどうしたら許されるのか
ではこのような人は、不祥事を起こした芸能人がどんなことをしたら許せるのか。いつになったら許そうと思えるのか。
言い訳をしない真摯な謝罪はもちろんのこと、一定期間の活動自粛、社会奉仕活動への参加、原因究明と再発防止に向けた具体的な言葉などが、当事者だけでなくネット上で批判する人々への贖罪にもなっています。
ただ、これらは「贖罪のベースになる」というだけで、根本的に「許された」という状態ではないのが難しいところ。復帰後に批判が再燃するリスクがあるだけに慎重な言動が求められます。
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