「不祥事を起こした俳優を使うなんてありえない」フジ『102回目のプロポーズ』出演の唐田えりかと伊藤健太郎を"批判する人たち"の危うさ

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「不倫騒動の当事者である相手の元妻と子どもや、事故の当事者である被害者が、今も2人が地上波のドラマに出演することを望んでいないのか」はわかりませんが、それは彼らにとってどちらでもいいこと。

「当事者がどう思っているのかはわからないけど、それでも許せない」というコメントを書き込み、断罪したいというスタンスをとっています。

ただ実際のところ「本当に許さないし、断罪したいのか」といえば、そこまでの感情ではないという人が多いのではないでしょうか。

そもそも「今回の記事がなければ唐田さんや伊藤さんの存在すら忘れていた人々の思いはあまり強くない」とみなすのが自然。ずっと唐田さんや伊藤さんに「許せない」という気持ちを持ち続けていたわけではないだけに、そこへのこだわりは感じられません。

多少の嫌悪感こそあるものの、強い感情を抱くほどこだわっているわけではなく、「名前や顔を見ると条件反射のように批判したくなる」のが実際のところでしょう。その感情は感覚的なもので大した意味はなく、いつでも引っ込められるものにみえます。

以前、「芸能人への誹謗中傷で訴えられた」という30代男性と40代女性を取材したことがありますが、2人とも「『何となく嫌い』というだけで、そこにあまり意味はなかった」「誰のためでもない勝手な正義感を持っていた」などと語っていました。

さらに「訴えられたから、あわてて謝罪した」「なぜあんなに怒っていたのかわからない。やらなければよかった」などと後悔の念を明かしていたのです。

同様に唐田さんや伊藤さんのケースでも、「何となく嫌い」というだけのはずなのに「許せない」という強烈な言葉を浴びせ、誰かのためという勝手な正義感で批判しているだけなのかもしれません。

誹謗中傷とセットの“他責思考”

会ったこともない人をネット上で批判する人は、基本的に他責思考。何らかの問題が発生した際、自分以外にその原因や責任を求める傾向があります。

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