天皇の意向を退ける「尊号事件」 反感買う松平定信がさらに敵を増やしても尊号宣下を拒否したワケ

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輔平からは「孝行心によるものだから認めてほしい」と再考を求められるも、定信は方針を変えることはなかった。

ただし、定信なりに妥協もしたらしい。定信と輔平とのやりとりのなかで、昨年の大河「光る君へ」にも登場した、敦明親王(あつあきら しんのう)が引き合いに出されることになる。

平安時代において栄華を誇った藤原道長は、三条天皇を退位に追い込んで、自分の孫・敦成親王(あつひら しんのう)が後一条天皇として即位することになった。そこまでは道長の思惑通りだったが、皇太子には三条天皇の第1皇子・敦明親王が立てられることになった。

このとき、道長の孫である後一条天皇はまだ9歳で、健康なまま育つとは限らない。一方の皇太子の敦明親王は23歳と、すぐにでも帝になれる年齢だ。道長にとっては脅威だったが、三条天皇が崩御すると、後ろ盾を失った敦明親王は皇太子を自ら辞退。結局、皇太子には道長のもう一人の孫である敦良親王(あつなが しんのう)が立てられることになった。

このとき道長の配慮で、敦明親王には「小一条院」という称号が与えられて、准太上天皇(上皇に準ずる存在)として経済的に優遇されることになった。

松平定信と関白の鷹司輔平とのやりとりでは、敦明親王のそんな処遇について話題に上り、定信も典仁親王を経済的な面で優遇することは認めたようだ。天皇もそれをいったんは受け入れて、解決したかに見えた。

朝廷に通告することなく公家の2人を処分した

しかし、光格天皇は諦めきれなかったようだ。寛政3(1791)年末に関白が鷹司輔平から一条輝良に代わると、再び幕府にアプローチしている。天皇の周りを賛成派の公家たちで固めたうえで、先例を根拠にしながら、朝廷は再び尊号宣下の実現を迫る文書を幕府に送りつけたのだ。

定信のほうはというと、どれだけ言われても意見を変えるつもりはなかった。先例については状況が異なるために「従う必要なし」という立場を変えず、「孝心」、つまり「親を思う子の思いやりだから」とする言い分についても、定信らしい、こんなロジカルな反論を用意していた。

「悪しき先例を後世に残したのでは先祖代々に対する〈孝心〉にならない」

さらに、定信はこのときに朝廷が再び回答を迫ってくることや、尊号宣下を断行してきた場合も想定して、幕府内で対応を協議している。

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